家計の非連続的なインフレ関心度合い:閾値モデルによる実証
(サマリー)
本稿では、物価上昇率が閾値を超えると、家計のインフレ関心度合いが高まっていくという合理的無関心仮説(RIH)を閾値モデルによって検証した。その結果、第一に、家計のインフレ関心度合いを表す代替変数として、グーグル・トレンドの“inflation”の検索指数が有効であった。閾値モデルにより、インフレ関心度合いが高まり始める閾値は、米国で+3.0%、わが国で+1.5%と推計された。わが国では長らく低インフレが続いたため、今次インフレ期のデータを含めないと安定した閾値は算出できなかった。また、検索用語は、「インフレ」、「インフレーション」よりも「物価」の方が安定的な推計結果が得られた。第二に、同様の推計手法を用いて、21か国の閾値を推計した。閾値が低い国は、スイス(+1.0%)、日本(+1.5%)であった。その他多くの国は、+2.5%から+3.5%のレンジに入っており、中央銀行のインフレ目標である2%や1-3%を少し超過したところに閾値が並んだ。また、計測期間の平均インフレ率と閾値の水準には低インフレ国が多い先進諸国のみならず、新興国の高インフレ国を含めた場合でも安定した相関関係が観察された。第三に、上記推計の頑健性を確認するため、家計の期待インフレに関するアンケート調査から「わからない」の回答比率を用いて別途閾値を計算した。その結果、日米ともに、グーグル・トレンドから求められた閾値と一致した。なお、閾値の存在は、低インフレ時のフィリップス曲線のフラット化など金融政策上のインプリケーションを有する点にも留意が必要である。
1. はじめに
日本経済は長期間、低インフレ期を経験した。代表的な物価指標である消費者物価指数(CPI<除く生鮮食品、消費税率引上げ調整後>)は、概ね?2%から+2%弱のレンジで推移した。しかし2021年入り後、CPI は突如上昇基調に転じ、2023 年 1 月には前年比+4.1%に達した。2024 年 7 月時点においても+2.7%と、依然高い伸びが続いている。 こうした最近のインフレ高進は、経済的には様々な問題をもたらす一方、マクロ経済分析の観点からは、物価の低位安定期には観測できなかった新たな分析の機会をもたらした。その一つが期待インフレに関する研究である。期待インフレは、経済活動において重要な役割を果たしているが、期待形成プロセスについては十分な解明が進んでいるとはいえない。 インフォテイメント研究所では、家計の期待インフレについて、「今次インフレ期における家計の期待インフレの不安定性」(2023/11月公表)および、「わが国家計のインフレ実感:形成過程と期待インフレ率との関係」(同 2024/2 月)を公表した。また、企業の期待インフレについても、「今次インフレ期における企業の期待インフレ率」(同2024/6 月)を発表している。 本稿は、こうした期待インフレに関する調査の一環として、家計の合理的無関心仮説(rational inattention hypothesis (RIH))を定量的に分析した。RIH とは、期待インフレ形成モデルの一種で、「人々の認知能力には限界があるため、情報収集や処理を行うのは優先度の高い事項に限り、そうでないものには無関心となるのが合理的行動である」という考え方である。 従来、関心度合いを示す具体的な指標が見当たらず、RIH の定量的な評価が進まなかったが、近年グーグル・トレンドの検索数を用いる手法が開発された。推計には閾値モデルを用いて、家計は一定のインフレ率(閾値)を下回った状態ではインフレ率に比較的無関心な一方、一旦閾値を超えるとインフレの高まりに応じて関心を高めていくという非連続的な特性を確認する。本稿ではこうした分析手法によって、以下の3 点を明らかにした。 第一に、グーグル・トレンドによる“inflation”の検索指数は、家計のインフレ関心度合いを表す代替変数として有効である。閾値モデルによる推計により、インフレへの関心度合いが高まり始める閾値は、米国で+3.0%、わが国で+1.5%と推計された。わが国では長らく低インフレが続いたため、今次インフレ期のデータを含めないと安定した 閾値は算出できなかった。また、検索用語は、「インフレ」、「インフレーション」よりも「物価」の方が安定的な推計結果が得られた。 第二に、同様の推計手法を用いて、21 か国の閾値を推計した。閾値が低い国は、スイス(+1.0%)、日本(+1.5%)であった。その他多くの国は、+2.5%から+3.5%のレンジに入っており、中央銀行のインフレ目標である2%や1?3%を少し超過したところに閾値が並んだ。また、計測期間の平均インフレ率と閾値の水準には低インフレ国が多い先進諸国のみならず、ウルグアイ、トルコ等高インフレ国を含めた場合でも安定した相関関係が観察された。 第三に、上記推計の頑健性を確認するため、家計の期待インフレに関するアンケート調査から「わからない」の回答比率を用いて別途閾値を計算した。その結果、日米ともに、グーグル・トレンドから求められた閾値と一致し、頑健性が確認された。本稿の構成は以下の通りである。まず第 2 章では、グーグル・トレンドの検索数を用いてインフレ関心度合いの閾値を推計する。続く第3章では、21か国の閾値を求めて閾値と平均インフレ率の関係を明らかにする。第4章は、頑健性の検証として、家計のサーベイ調査を利用する。第 5 章では、閾値の存在が金融政策にもたらす含意を整理する。第6章は、終章である。
2. 閾値モデルによる推計
2.1. 完全合理性が成り立たない現実の期待形成
期待インフレは、家計の経済活動に大きな影響を与えている。例えば、消費財・サービスの買い時判断、住宅や自動車などのローン金利動向や賃金決定過程など幅広い影響を及ぼしている。 期待インフレは経済学でも重要視されており、理論的には、完全合理的に形成されると考えられることが多い。完全合理的とは、経済活動に必要な全ての情報にアクセス可能で、それら情報に基づいて常に最適な選択を行うことができることを指す。 しかしながら、家計の期待インフレ率は、専門家の期待インフレや実際の物価動向と大きく乖離することが多い。例えば、家計の1年後の期待インフレ率は、+10%(中央値)、5 年後でも+5%(同)となっており1、消費者物価指数(CPI)の前年比(2024/7月)の+2.7%や、近年の同指数の最高値+4.1%(2022/12 月)よりも高くなっている。こ1日本銀行調査の「生活意識調査」、2024年6月調査。 このことは、家計の期待インフレは、経済学が想定するような完全合理的ではないことを示唆している。 更に、家計が完全合理的であれば、期待インフレ率はばらつくことなく、同一の水準に落ち着くはずであるが、実際の調査では、0%から+10%以上まで大きなばらつきが生じている。このように、家計の期待インフレ形成が完全合理的とは言えない背景としては、以下のような要因が指摘されている。 第一に、多くの家計で期待インフレ率の形成に必要な知識が不足している。例えば、日本銀行が物価安定の目標を CPI 前年比+2%に定めていることを「知っている」と回答した先は 26%に過ぎない。同様に、日本銀行の活動に「関心がある」との回答は32%と低水準に留まっている。第二に、家計は、期待インフレ形成の基礎となる実際の物価動向を正確に把握していない。家計のインフレ実感は、食料品やガソリンなど日常的に頻繁に購入する品目の価格に強く影響されることが判明している。物価動向の把握の歪みは、期待インフレ形成にも大きな影響を及ぼす。 三に、期待インフレ率は、家計の社会経済的な属性(性別、所得、学歴、金融リテラシー等)によって回答傾向が異なる。家計が完全合理的であれば、期待インフレはこうした属性の違いの影響を受けない筋合いである。 上記要因に共通することは、多くの家計は、期待インフレの形成に十分な関心を払っておらず、完全合理的には行動していないことである。このため、経済学でも、完全合理性に代わる家計の期待形成理論として、合理的無関心仮説 (rational inattention hypothesis (RIH)) や粘着情報仮説 (sticky information)などが提唱されるようになった。RIH は、家計の情報処理能力に限界があることを認め、その能力を自分にとって価値が高く重要な情報の処理に割り当て、価値の低い情報は無視すると考える。すなわち、情報処理能力に限度がある場合には、自分にとって価値の低い情報に無関心であることが合理的な行動なのである。 より具体的にインフレ動向に即してみると、インフレ高進期に物価関連情報が不足すると、消費財やサービスの購入時期を誤ったり、金利動向を読み違えて不利な自動車や住宅ローンを契約してしまったりする。このため、家計は、インフレ動向に強い関心を持ち、期待インフレの予測にも注力するようになる。逆に、低インフレ期には、消費・投資行動に物価変動が及ぼす影響が相対的に小さくなるため、情報価値が低下し、家計は無関心となる。その分、限られた情報処理能力は、賃金動向や失業率など大きく変動し、生活への影響が大きい分野に割り当てられることになる。このように、インフレ水準によって、家計の物価動向への関心度合いが非連続的・非線形的に変化すると考えるのが、RIHである。
2.2. RIH は、定量的に検証できるのか
では、RIH は、どのように実証できるのであろうか。実のところ、RIHの実証研究例は少なく、特に定量的な分析は限られている。ただし、近年の物価動向は、RIH の分析に好都合な状態を提供している。すなわち、先進国では2008-09年の金融危機後、軒並み低インフレが続き、わが国をはじめとして物価下落に陥った先も見られた。こうした状況では、RIHでいう合理的無関心の状態に陥っていた可能性が高い。 その後、2021-02 年には、コロナ禍における需給タイト化、ロシアのウクライナ侵攻等による資源価格の上昇、そしてわが国では円安の進行などインフレ要因が重なり、世界的にインフレ率が高まった。このような物価動向を巡る急速な環境変化により、RIH が想定するような、合理的無関心から関心を高めるフェーズへの転換が期待できる。RIH を実証する際の問題点は、家計の物価に対する関心度をどのようにデータ化するか、である。この点、最近発表された海外の論文では、グーグルのトレンド・サーチを用いて、グーグルのおける“inflation”という単語の検索数を人々のインフレ関心度を表す代理変数とした上で分析している5。新聞やテレビを通じた受動的に受け取る情報とは異なり、インターネット検索は、能動的な情報取得行動であり、関心度との関連性が高い。なお、グーグル・トレンドは、物価動向以外にも、例えば、自動車販売、失業率、新型コロナやインフルエンザの感染状況等の把握にも広く用いられている。 わが国の場合の検索数を図表1に示した。なお、“inflation”の直訳は、「インフレ」ないし「インフレーション」であるが、後述する分析結果でもっともレスポンスの良い「物価」を採用した。グーグル・トレンドでは、期間中の最大値を 100 として、0 から 100 の間に検索結果数が収まるように指数化されている。同図は、2004 年 1 月-2024 年 図表2は、同様に、米国における“inflation”の検索結果である。低インフレ期の規則的な凹凸は、季節性の存在を窺わせるが、わが国以上に低インフレ期と今次インフレ期のコントラストが著しい。 月の期間を図示しているが、指数のピークは、2022年12月と、CPI前年比のピークと致している。 次に、グーグル検索数と CPI との関係を図表 3 で図示した。これは米国の例で、横軸にCPI 前年比、縦軸に検索指数をとり、2004 年以降月次のデータをプロットしたものである。米国でもCPI 前年比が 0?3%程度の安定期が長く続いたため、左下の領域にドットが集中しているが、今次インフレ期を中心に右上にかけてもドットが分布している。ちなみに指数関数を当てはめると、CPI前年比が上昇するほど、非線形的に検索指数家計のインフレ関心度合いが高まっていく様子が窺われる6。こうした動きは、インフレ率が高まると家計は合理的無関心の状態から脱していくと考える RIH と整合的である。
2.3. 閾値モデルによる分析
本節では、Korenok et al. (2022)(Korenok 論文)で示された手法に則ってRIHと閾値を検証していく。Korenok 論文では、閾値モデルを用いて、CPI 前年比の上昇に従って、インフレ関心度合い(検索数)が非連続的に変化することを検証している。具体的には、@低インフレ時には、合理的無関心 (rational inattention) な状態にあり、インフレ率が多少上昇しても検索数は余り高まらないこと、A一定のインフレ率(閾値)を超過すると、一転してインフレ率の上昇と共に関心も高まっていく関係に転ずること (high attention)と想定する。閾値モデルでは、こうした閾値の数値化が可能である。本稿では、以下のような閾値モデル(threshold model) を用いる。 yt=α+β1xt (xt<γ)+β2xt (xt>γ)+et ここで、ytは、t期における検索数(0-100に指数化)、xtは、t期におけるCPI前年比、(xt<γ)は、CPI 前年比が閾値 γ より小さい場合に1、その他の場合には0をとるダミー変数、(xt>γ)は、逆に CPI 前年比が閾値γより大きい場合に 0、小さい場合に 1 をとるダミー変数である。β1およびβ2はそれぞれの状態における係数である。
Korenok 論文では、@β1=0 という帰無仮説が棄却されないこと、A逆にβ2=0 という帰無仮説が棄却され、有意に0以外の正の数値をとることを求めている。 なお、γについては、回帰式の二乗平均平方根誤差(RMSE)が最小となる値を求めていくことになる。ここでは、RMSEの代わりにR2が最大になるγをCPIを0.5%ポイント刻みで代入して閾値を特定していく。 Korenok 論文に倣って、まず米国の場合の閾値を求めてみよう。使用する変数は、グーグル・トレンドの“inflation”(米国)と CPI コア前年比で、データ期間は2004年1 月-2024年6月である。なお、グーグル・トレンドのデータは検索する単語や国を問わず、2004年1月が始期となっている。 上記表から明らかな通り、米国の閾値はCPIコア前年比で+3.0%にある。なお、閾値が3.0%の場合の係数は、β1=5.952 (t値=28.104)、β2=0.454 (同1.385)となった。両変数の散布図に閾値モデルの計算結果を重ねると図表 5 のようになる。CPIコア前年比が+3.0%以下では傾向線がほぼフラット、+3.0%以上では明確な正の勾配線に変化している。つまり、閾値を境にlow-attention フェーズと high-attention フェーズに分かれる。 なお、Korenok 論文では、米国の閾値を+3.55%と算出している。本稿の計算よりも約0.5%ポイント高くなっているが、その要因としては、@Korenok論文では、ヘッドラインCPIを用いている一方、本稿ではコアCPIを用いたこと、A計算期間がKorenok論文では2022 年5月までとなっている一方、本稿では、2024年6月まで延長したこと、が考えられる。 次に、同様の手法で、わが国家計のデータを分析する。“inflation”の直訳は、「インフレ」ないし「インフレーション」なので、両単語について分析した(図表 6)。計測期間は米国同様、2004年1月?2024年6月、CPI前年比については、除く生鮮・消費税率引き上げ要因調整済みを用いた。「インフレ」については、閾値が+1.5%となった。「インフレーション」については、R2 の最大値は、+0.5%となったが、そのほかにも、局所的なピークが、+2.0%、+3.0%にもみられ、閾値を明確に特定することはできなかった。わが国では、「インフレーション」とよりも「インフレ」と略した言葉の方がよく使われることと関連している可能性がある。 次に、わが国は低インフレ期が長く続いたことを勘案し、”inflation”とは若干意味合いが違うが、よりニュートラルな単語である「物価」でも同様な作業を行なった。計測期間やCPIについては図表6と同様である(図表7)。計算の結果、「インフレ」同様、「物価」についても閾値が+1.5%となった。R2も「インフレ」よりも有意に高くなっている。こうした結果から、わが国のインフレへの関心の閾値は、+1.5%前後と見做して良いであろう。 日本銀行は、2%のインフレ目標を定めているが、過去に持続した低インフレ期影響もあり、閾値は政策目標値を下回っている。今後の物価情勢次第で閾値も動きうるが、少なくとも現状では、金融政策目標に届いていない。 図表8は、「物価」の計算結果に基づき、米国の図表 5 と同様に散布図及び傾向線を描いたものである。R2 が米国よりも劣っていることに表れているように、閾値+1.5%以下のlow-attention の領域でも散らばりがかなり大きく、傾向線もt値が低いながらも若干のマイナスの値をとるなど米国ほど教科書的ではない。なお、同図に示した閾値モデルのパラメーターは以下の通りである。
yt=33.01-1.81xt (xt<1.5)+10.79xt (xt>1.5)+et
Korenok 論文では、先進国、新興国合わせて 37 か国について上記手法を適用している。全37 か国の閾値の平均は、+2.09 となっており、米国の+3.55 よりはかなり低くなっている。また、同論文では、37 か国の分析結果に基づきサンプルを、@米国と同様パターン」、A「中間パターン」、B「米国とは非整合的なパターン」の 3 種類に分類している。計測期間が2022年5月までという点に留意する必要があるが、わが国は3分類のうち、B「米国とは非整合的なパターン」に分類され、計算された閾値も 0.27 と非常に低い。同じく低インフレ国であるスイスも閾値が 0.36 と非常に低く、両国共にインフレ関心度合いの非連続性が明確には検出できていない。こうした結果につき同論文では、最高インフレ率が他国に比べ低いため、計測期間中、high-attention領域に一度も入っていないためではないかと推測している。Knorenok 論文に合わせ、計測期間を2004年1月?2021年12月に短縮して閾値を再計算した(図表 9)。一見してわかるように、R2 が極めて低く、一応ピークは、+1.5%となっているが、信頼性は疑わしい結果となった。
3.閾値と平均インフレ率との関係
前章でみたように、閾値は米国で+3.5%、わが国で+1.5%と国によって異なっている。そこで本章では、わが国を含め 21 か国で閾値を推計した(図表 10)。なお、閾値が不明確で特定に至らなかった国については省略した。計測期間は、2004年1月から各国の CPI 直近発表月までである。なお、検索した単語は、英語の“inflation”を各国の公用語に翻訳した単語を用いたが、一部の国では検索結果が不自然な動きがみられ、こうした国々では、英語の“inflation”で代替した。 閾値の結果を見ると、最も低いのがスイスの+1.0%、ついでわが国の+1.5%となった。多くの国では、閾値は+2.5%から+3.5%のレンジに入っており、中央銀行のインフレ目標である2%や1-3%を少し超過したところに閾値が並んだ。ただし、ウルグアイ、アルゼンチン、トルコなどは5%以上であり、特に後2か国では、2桁となっている。こうした国々では高いインフレ率の影響を受けているものと考えられる。 Korenok 論文では、わが国はスイスともに閾値モデルで不安定と判定されたが、2024 年 6 月までデータを延長したところ、安定的に閾値が算出されるようになった。このように、閾値の推計には、low attention とhigh attention の双方の状態を含んでいることが必須となる。 図表 10 の並び具合と各国のインフレ状況からもわかるように、計測期間中の平均的なインフレ率と閾値には相関関係があるように窺われる。Korenok論文でも閾値と平均インフレ率の関係をプロットした散布図が示されている。図表 10 のうち、先進国をプロットしたものが、図表11である。 両者の間にはR2=0.79 程度のかなり安定した相関関係が見られる。わが国は傾向線の左端に位置するが、傾向線との乖離は比較的少ない。スイスは、閾値が 1%とわが国より低いもが、中央銀行のインフレ目標は、「2%未満」であり、わが国同様、目標値を下回っている。 なお、わが国で2004年以降の計測期間でCPI前年比が閾値を超えたのは、金融危機直前と今次インフレの 2 回のみ(消費税率調整は、除いてある)であり、割合にして12.5%に過ぎない(図表12)。 次に、高インフレ国を含む21か国全体をプロットしたのが、図表13である。高インフレ国を含めても閾値と平均インフレ率の間には安定的な相関関係が認められ、人々が high attention に移行する閾値は、インフレ実績に大きく影響されることがわかる。
4. 頑健性の検証
4.1. DK 回答による閾値推計
前節では、家計のインフレ動向への関心度合いをグーグル・トレンドの指数で推計した。本節では、他のインフレ関心度合いを表す変数を用いて閾値モデルを推計し、推計の頑健性を確認する。 Korenok 論文では、頑健性チエックを X(旧ツイッター)における“inflation”の使用回数で実施しており、グーグル・トレンドの推計と同様の推計結果を得たとしている。本稿では、これとは別に、Bracha and Tang (2022)(BT論文)で示された推計方法を用いる。すなわち、同論文では家計の期待インフレ調査から得られた回答のうち、「わからない」(Don’t know)を選択した回答者の比率(DK 比率)をインフレ関心度合いを示す代替変数として利用している。すなわち、閾値以下の無関心状態では、DK 比率が高く、逆に、インフレ率が閾値以上に上昇し、high attentionのモードに入るとDK比率が低下する、と考える。本稿でもデータはBT論文同様、米国の期待インフレに関する代表的な調査である、ミシガン大学の“Survey of Consumers”を利用した。計測期間はグーグル・トレンドの分析に合わせて、2004 年 1 月?2024 年 6 月とし、CPI コア前年比を用いて計測した(図表14)。 全般的に R2が低いことは問題だが、DK 比率ベースでも、インフレへの関心度の閾値は+3.0%と、グーグル・トレンドから算出した値と同値になった。このため、米国の場合の閾値は+3.0%前後にあるとみて良いであろう。 次に、同様の推計手法をわが国に当てはめてみる。日本銀行が調査している「生活意識調査」では、選択肢に「わからない」が入っていないが、内閣府が調査している「消費動向調査」では、「わからない」の選択肢が含まれている。データ期間は、消費動向調査のデータ制約から2004年4月-2024年6月、CPIは、消費税調整済みの前年比を利用した。推計結果は下記の通りである(図表15)。 計算された閾値は、+1.5%となり、図表 7 で示したグーグル・トレンドから求めた。閾値+1.5%と一致した。このことから、わが国では閾値は+1.5%程度にあり、米国に比べ低インフレ期が持続したため、閾値が有意に低い水準にあることが確認された。 両国ともに、中央銀行のインフレ目標は、2%に設定されているが、低インフレ期間が長かったわが国では、目標値に届く前に閾値を超えてしまう一方、米国では目標値を 1%超えたところで閾値に届くところが興味深い。人々がインフレ目標を信用しているのであれば、目標を超えたところに閾値がくる米国型の方が自然な関係と考えられる。
4.2. 家計の属性別・閾値
消費動向調査では、属性別の回答内容が公表されており、それぞれにDK比率が算出可能である。そこで、参考までに属性別の閾値を算出した(図表16)。 性別、所得階層別では、属性ごとの相違はみられず、+1.5%と全体の閾値と同一であった。一方、就業形態別では、無業者のみ 0.5%ポイント高い+2.0%となった。逆に世帯分類別では、単身世帯が平均より 0.5%低い+1.0%となった。また、世帯主年齢階層別では、20 代では、サンプル数が少なく安定した閾値が計算できなかったほか、40 代が+0.5%とかなり低い閾値となるなど全体的に不安定であった。また、60代、70 代以上の高齢者層では、閾値が+2.5%と他世代よりも高くなった。これはいわゆるコーホート効果で 1970 年代の高インフレ期の記憶が残っている影響とも考えられる。全体としてみると、閾値が+1.5%となる分類が過半を占めており、図表 15で示したサンプル全体の推計と概ね整合的な結果となっている。
5. 金融政策への含意
インフレ関心度に閾値があり、インフレ率と非線形的な関係にあることは、金融政策運営にも以下のようなインプリケーションを与える。第一に、インフレ率が低く、家計が low attention の状態にある場合、インフレ率の変化に対して家計の反応は鈍くなる。これは、経済学のフィリップス曲線でいえば曲線の傾きが緩やかになることと等しい。実際、金融危機後に先進諸国が経験した持続的な低インフレ期には、フィリップス曲線のフラット化が問題となっている。 逆に閾値を超えるインフレが続く場合、高止まりしがちな期待インフレ率を円滑に引下げるためには、利上げ政策に加えて、人々の期待に働きかけるような中央銀行コミュニケーションが求められる。その際には、経済主体が high-attention の状態になっていることに留意した発信情報の選択や工夫が求められる。 第三に、中央銀行が一般向けコミュニケーションを実施する際にも閾値の存在が問題となる。閾値以下の低インフレ時には、金融政策上、期待に働きかける非伝統的政策を採るケースが多い一方、家計や企業の反応は鈍くなってしまうという政策上のジレンマが生じてしまう。ここでいう期待に働きかける政策とは、フォーワード・ガイダンスや量的緩和政策などである。 第二に、今次インフレ期のように、家計がhigh attention の状態に入ると、家計はインフレ率の動向に敏感になり、実際のインフレ指標が下落に転じても、期待インフレは高止まり傾向を示したり、下降に要する時間が長くなったりする傾向が現れやすい。事実、わが国家計の期待インフレ率をみると、CPIが2022年第4四半期をピークに前年比が低下に転じたのに対し、5年後期待インフレは、2022年第2四半期以降、2年間も横這いを辿っており、下降に転ずる気配が伺えない(図表 17)。また、high attention 期には、インフレ・ショックの賃金や価格設定などへのパス・スルーが高まることにも留意が必要である。
6. おわりに
本稿では、物価上昇率が閾値を超えると、インフレ関心度合いが非連続的に高まるというRIHを閾値モデルによって検証した。 近年の物価動向は、RIH の検証に好都合な状態を提供している。第一に、金融危機後の低インフレ期が続いた後、コロナ禍期にインフレ率が急激に高まった。第二に、インフレへの関心度合いを示す指標としてグーグル・トレンドから得られる検索数を用いる研究が開発された。本稿においても RIH を閾値モデルで検証した結果、以下が判明した。 第一に、グーグル・トレンドの“inflation”の検索指数は、家計のインフレ関心度合いを表す代替変数として有効である。閾値モデルにより、インフレ関心度合いが高まり始める閾値は、米国で+3.0%、わが国で+1.5%と推計された。わが国では長らく低インフレが続いたため、今次インフレ期のデータを含めないと安定した閾値は算出できなかった。また、検索用語は、「インフレ」、「インフレーション」よりも「物価」の方が安定的な推計結果が得られた。 第二に、同様の推計手法を用いて、21 か国の閾値を推計した。閾値が低い国は、スイス(+1.0%)、日本(+1.5%)であった。その他多くの国は、+2.5%から+3.5%のレンジに入っており、中央銀行のインフレ目標である2%や1?3%を少し超過したところに閾値が並んだ。また、計測期間の平均インフレ率と閾値の水準には低インフレ国が多い先進諸国のみならず、ウルグアイ、トルコ等高インフレ国を含めた場合でも安定した相関関係が観察された。 第三に、上記推計の頑健性を確認するため、家計の期待インフレに関するアンケート調査から「わからない」の回答比率を用いて別途閾値を計算した。その結果、日米ともに、グーグル・トレンドから求められた閾値と一致し、頑健性が確認された このほか、閾値存在は、中央銀行の金融政策にも、@低インフレ時のフィリップス曲線のフラット化、A高インフレ時の期待インフレの高止まり現象、B中央銀行コミュニケーションの重要性、などのインプリケーションを有する点にも留意が必要である。
以 上
(参考文献)
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Bracha and Tang (2022) “Inflation levels and (in)attention,” Anat Bracha and Jenny Tang, Federal Reserve Bank of Boston Working Paper No,22-4, January2022
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Sims (2003) “Implication of rational inattention,” Journal of Monetary Economics, Christopher A. Sims, Vol.3, Issue 50, April 2003
今次インフレ期における企業の期待インフレ率
(サマリー)
本稿では、今次インフレ期における企業の期待インフレの特徴や期待形成について考察する。
第一に、わが国企業の期待インフレの動向を短観調査でみると、プレ・パンデミック期には、各年限とも 1%前後で推移した後、今次インフレ期のピーク時には 1 年先で3%、5 年先でも 2%強に達した。また、企業規模別では、大規模企業ほど低くなっている。また、他の経済主体の期待インフレ率と比べると、「エコノミスト<企業<家計」の順となった。なお、パンデミック期入り後、企業は不確実性の増大を理由に回答を留保する割合が、5?10%ポイント程度上昇している。
第二に、企業の期待形成は、完全合理性的でも適合的期待でもない。これは、@企業規模などによるインフレ率のバラツキ、ACPI に対する上方バイアスの存在、など合理的でない行動が見られる反面、Bインフレ高進期に期待インフレ率を重視するスタンスに転換するなど合理的な面もみられるからである。両者を整合的に説明する理論として、“rational inattention” (RI)が注目されている。RI では、企業は、「合理的に(価値の少ない情報を)無視する」と考え、期待インフレの優先度は、インフレ率や投入コストなどにより変動する。
第三に、期待インフレがアンカーされているか(金融政策のインフレ目標付近で安定的に推移している状態)どうかを検証すると、今次インフレ期入り後、長期の期待インフレが明確な上昇傾向を示しており、アンカーされているとはいえない。これはわが国のみならず英国、イタリア等他の主要先進国についても同様である。
企業の期待インフレに関するデータや研究は数が少なく、今後ともデータの充実、期待インフレ形成過程に関する研究などの進展が望まれるところである。
1. はじめに
日本経済は長期間、低インフレ期を経験した。この間、代表的な物価指標である消費者物価指数(CPI<除く生鮮食品、消費税率引上げ要因>)は、概ね?2%から+2% 弱のレンジで推移した。しかし 2021 年入り後、こうした低位安定基調は突然変化した。すなわち、輸入物価上昇を起点とした企業の価格転嫁行動を背景に CPI は上昇基調に転じ、2023 年 1 月には前年比+4.1%に達した。2024 年 3 月時点においても+2.6%と、従来に比べると依然高い伸びが続いている。こうした最近のインフレ高進は、経済的には様々な問題をもたらす一方、マクロ経済分析の観点からは、物価の低位安定期には観測できなかった経済局面が出現し新たな分析の機会をもたらしている。
インフォテイメント研究所では、これまでにも、今次インフレ期における家計部門の期待インフレについて、「今次インフレ期における家計の期待インフレの不安定性」(2023/11 月公表)および、「わが国家計のインフレ実感:形成過程と期待インフレ率との関係」(同 2024/2 月)を公表した。これらでは、今次インフレ期に家計の期待インフレが CPI 変化率を大きく上回る水準に上昇したことや、本来安定的であるべき長期的な予想インフレ率までも欧米家計に比べて大幅に上昇したことを指摘した。本稿では、家計部門に続き、企業部門の期待インフレの特徴や期待形成について考察する。なお、企業のインフレ期待については、内外ともに関連データが家計部門に比べて非常に限られているほか、先行研究も少ない。本稿の分析の結果を先取りすると以下の三点である。第一に、わが国企業の期待インフレの動向を短観調査でみると、プレ・パンデミック期には、各年限とも 1%前後で推移した後、今次インフレ期に入ると急激な上昇傾向を辿り、ピーク時には 1 年先で 3%、5 年先でも 2%強に達した。また、企業規模別では、大規模企業ほど期待インフレ率は低くなる一方、業種別には、大きな差異はみられなかった。また、他の経済主体と比較すると、「エコノミスト・金融市場関係者<企業<家計」の順となった。なお、企業は 5年先予想については約半数が不確実性を理由に、「イメージがない」と回答しているほか、その割合はパンデミック期入り後更に 5-10%ポイント程度上昇している。
第二に、企業の期待形成について、@企業規模などによるインフレ率のバラツキ、ACPI 等に対する上方バイアスの存在、B自社販売価格と期待インフレ率との間の相関関係、などから、一部理論が想定するような完全合理的とはなっていない。逆に、企業は、@インフレ高進期に期待インフレ率を重視するスタンスに転換していること、A投入コストの動向が期待インフレに影響を及ぼしていることから、過去の傾向を機械的に延長する適合的期待も行ってはいない。こうした現象を整合的に説明する理論として、“rational inattention” (RI)が注目されている。RI では、企業は、「合理的に(価値の少ない情報を)無視する」と考える。インフレ率の上昇や投入コストの変動が拡大すると、期待インフレが優先的に扱われるようになる一方、低インフレ状態が長期に亘って続くと逆に、優先度が低下してしまう。第三に、期待インフレがアンカーされているか(金融政策のインフレ目標付近で安定的に推移している状態)どうかを検証すると、今次インフレ期入り後、長期の期待インフレについても明確な上昇傾向を示しており、アンカーされているとはいえない。これはわが国のみならず英国、イタリア等他の主要先進国についても同様である。冒頭でも触れたように、企業の期待インフレに関するデータや研究は数が少なく、今後ともデータの充実、期待インフレ形成過程に関する研究などの進展が望まれるところである。
本稿の構成は以下の通りである。まず第 2 章では、企業の期待インフレに対する関心の高まりについて述べる。続く第 3 章では、短観データを中心に企業の期待インフレの特徴を整理する。第 4 章では、企業の期待インフレの形成過程やアンカーの有無について考察する。第 5 章は、終章である。
2. 企業の期待インフレの研究動向
2.1. 企業の期待インフレに対する関心の高まり
はじめにでも述べたように、企業の期待インフレに関する研究例は内外ともに非常に少ない。これは、第一に、企業の期待インフレを対象としたデータが非常に限られていることも大いに関係している。すなわち、データ取集にあたり、@企業の協力が得られにくく、サンプル数を増やしにくいこと、A業種や企業規模を母集団と比例するようにサンプリングすることが難しいこと、B回答者の職位のバラツキが排除できないこと、などが関連している。
第二に、従来、学者や中央銀行関係者など期待インフレの研究者の関心が金融市場やエコノミストなど専門家から得られる期待インフレに偏っていたことも大きく影響している。過去の研究では、合理的期待形成を前提として、企業の期待インフレのデータが必要な場合にもエコノミストの期待インフレで代替するケースが散見された。しかし、経済分析を専門とするエコノミストと比べると、一般企業はマクロの価格情報が限られる反面、自社製品価格や仕入れ価格等の情報を有しており、独自の期待インフレを形成していると考えるのが自然であろう。こうした企業の期待インフレを軽視する傾向が変化したのは、2010 年代以降である。その理由は、@企業の自社製品・価格設定メカニズムが経済理論で明示的に扱われるようになったこと、Aコロナ禍以前のデフレ期の価格メカニズム解明作業において、企業の価格設定行動に関心が高まったこと、B今次インフレ期において、CPI 上昇率が二桁に達する先進国も現れる中で、家計・企業・金融市場など主要経済主体の予想インフレ形成メカニズムに改めて研究者の関心が集まったこと、などが挙げられる。さらに、学会のみならず、中央銀行関係者の間でも金融引締めによるインフレ抑制策との関係から、企業の期待インフレに対する関心が高まった。こうした関心の高まりを裏付けるように、2010 年代以降、主要国では中央銀行が主体となって、企業を対象とした調査が次々と開始されている(図表 1)。わが国では、日本銀行が短観調査の一部として期待インフレの調査を2014 年に開始しており、2010 年代末から 2020 年代に入ってから開始している国が多い欧米諸国に比べると、立ち上がりが早い。
2.2. 企業の期待インフレとマクロ経済
具体的な分析に入る前に、企業の期待インフレがマクロ経済に及ぼす影響を整理しておこう。
第一に、企業の期待インフレは、自社の製品・サービスの価格設定に影響を及ぼすことが挙げられる。もちろん、最終的な販売価格は需給に応じて決まり企業の意思が必ずしも常に価格に反映される訳ではない。しかし、今次インフレ期のように、資源価格の高騰や、円安の進行、米中対立によるサプライチェーンの脆弱化などコスト・プッシュ型のインフレが生じた場合には、企業の価格転嫁スタンスが、インフレ率に大きな影響を及ぼすこととなる。その際には、足元の価格状況のみならず、企業が想定する期待インフレ率も、価格戦略に影響を及ぼす。第二に、期待インフレは、賃金設定行動にも大きな影響を及ぼす。端的な例で言うと、1970 年代の米国経済のように、期待インフレの上昇が続くと、賃金と物価上昇率がスパイラル的に上昇して、インフレ高騰を招いてしまうことがある。一旦こうした状態に陥ると、インフレの鎮静化には、長期間に亘る金融引締めとそれに伴う失業率の上昇を甘受するしかなく、経済全体の犠牲コストが多大なものとなってしまう。第三に、企業の期待インフレは、企業が直面する実質金利に影響を及ぼす。名目金利が一定であっても、期待インフレの高低によって、実質金利は左右される。実質金利は、企業が設備投資を行う際のファンディング・コストに大きな影響を及ぼし、ひいては、マクロの設備投資動向をも左右する。第四に、金融政策の有効度合いにも影響を及ぼす。企業の中長期的な期待インフレが、金融政策上のインフレ目標値近傍で推移し、現実のインフレ率に余り大きく影響を受けない状態、すなわち、「期待インフレがアンカーされている」場合には、賃金・価格のスパイラル的な現象が起きにくく、金融政策によって物価はインフレ目標に速やかに収束するようになる(期待インフレがアンカーされているかは、後述 4.4.節を参照)。
3. 企業の期待インフレの特徴
3.1.期待インフレの動向
本章では、わが国の動向を中心に海外諸国のデータについても随時紹介する。日本銀行の短観調査は、わが国企業の期待インフレに関する唯一の調査である。短観は、四半期ごとに 1 万社以上の企業を対象としたアンケート調査を行い、業況判断などの判断項目、経常利益や設備投資などの年度計画を集計しており、景気判断の重要な材料として用いられている。その短観は、2014 年から調査項目に期待インフレ(1 年、3 年、5 年)および販売価格見通し(1 年、3 年、5 年)を追加した(図表 2、4)。期待インフレの推移をみると、プレ・パンデミック期には、各年限ともに、1%前後で安定的に推移していた(図表2)。また、CPI がマイナス領域にまで下落した 2020 年頃でもプラスを維持していることも特徴である。その後、2021 年から各年限とも急激な上昇傾向を辿り、ピーク時には、1 年先で 3%近くまで、5 年先でも 2%強にまで達している。その後、1 年先は 2023 年 3 月調査をピークに下落に転じる一方で、5 年先については、直近の 2024 年 3 月調査時点においても下降の兆候がみえていない。この間、3 年先は概ね 5 年先に近い動きをしている。
3.2.自社の販売価格予想との関係
短観では、企業の期待インフレに加え、自社の販売価格の予想変化率も質問している(図表 3)。1 年先予想で両者の関係をみると、調査期間全般を通じ非常に似通った動きをしている。ただし、仔細に見ると、販売価格予想は、CPI 同様に 2020 年を中心にマイナス値となっているのに対し、マクロの期待インフレは、プラス値を保っている。なお、3 年先および 5 年先の販売予想価格については、期待インフレ率とは異なり、調査時点からの累積変化率を表していることに注意が必要である。そこで、図表 4 では、1?3 年先および 3?5 年先を年率換算して図示した。グラフを見ると、物価状況やマクロの予想インフレの影響を受けているのは、1年先の販売価格のみで、1-3 年、3-5 年ともに、目先の物価動向に関わらず、小幅な変動に留まっている。仔細にみると、低インフレ期に 3-5 年先が 0.2-0.3%程度まで低下したこと、直近では、1-3 年先が小幅な上昇傾向にあること、などが窺えるが、全体としては、年率 0.5%近傍で推移している。このことから、企業は、マクロの期待インフレ率については、1?2%程度を想定している反面、自社販売価格については、中長期的には年率 0.5%程度とかなり抑制的に想定していることがみてとれる。海外の調査で販売価格予想が利用可能なのは、イタリア中銀による調査である。同調査は、短観よりも若干早い 2013 年に開始されている(図表 5)。短観と同様に、販売価格と期待インフレは、非常に似通った動きをしている。今次インフレ期では、期待インフレ率の方がピークアウト後の低下幅が大きいことは、短観と若干異なる点である。
3.3.企業のインフレ実感と期待インフレの関係
家計部門の期待インフレ率を巡る議論では、期待インフレ率は、足元のインフレ率に関する認識、すなわち、インフレ実感に大きく影響されている。残念ながら短観ではインフレ実感を調査していないが、海外の調査では、米国、フランスと英国でデータが利用可能である。いずれも調査期間が短いのが欠点だが、米仏では、インフレ実感とCPI は、ほぼ同レベルで推移している。米国では、2023 年にインフレ実感の方が高止まり傾向にある。英国では、データが今次インフレ期のピークアウト後しか利用できないが、実感が CPI を若干上回っている。いずれにせよ、参考までに図表 9 で示したわが国家計のように、インフレ実感が CPI を恒常的かつ大幅に上回る、といった関係性はみられない。このことから、企業と家計ではインフレ実感を起点とした期待インフレ形成プロセスに違いがあることが示唆される。
3.4.企業規模別の期待インフレ
短観の期待インフレ調査は、海外の同様の調査と比べ、サンプル数が 1 万社超と圧倒的に多く、企業規模や業種別などの詳細なデータを利用することができる点が大きなメリットとなっている(図表1参照)。本節ではまず、企業規模別の期待インフレを扱う(図表 10)。図からも明らかなように、10 年の調査期間を通じて期待インフレ率は、「大企業<中堅企業<中小企業」の順で変化はみられない。一般的に企業規模が大きくなるにつれ、企業や短観回答者が有する物価全般やマクロ経済に関する知識が多くなることが予想されるため、企業規模が大きいほど CPI に対する上方バイスが減少することは順当な結果といえる。ちなみに、期待インフレと同様に、販売価格予想を企業規模別にみると、大企業と中堅企業はほぼ同様な動きをしている一方、中小企業は、全般的に高めに推移しており、特に今次インフレ期には、大企業等に比べ 1%ポイント程度上回っている(図表11)。中小企業は大企業等に比べ、期待インフレ率が高い分、自社の販売価格予想も高めに見積もっているということだろうか。
海外では、イタリア中銀が規模別調査を実施している(図表 12)。今次インフレ期には、やはり中小企業の期待インフレが大企業を上回っているが、その差は、短観に比べると小さいようにみえる。こうした差異に大きく影響している要因として、イタリア調査では、期待インフレ率の回答を求める直前に現状のインフレ率を回答者に示す、という独自の調査方法の影響が挙げられる。こうした質問方法について、他の研究者から、回答者の期待インフレの上方バイアスを抑制するように作用しているとの批判がある。その証左にイタリアの予想期間別の期待インフレ率(図表 13)を図表 2 に示した短観の図と比べると、イタリア企業では期間別の差異が今次インフレ期を除くと殆どみられず、やや不自然な姿となっている。このことからも、独自の質問方法の影響が大きいとみられる。別途フランスで行われた調査でも、短観と同様に、企業規模が大きいほど期待インフレは低くなっている6。なお、同調査では回答者の役職による期待インフレ率の差異も検証しており、CFO や CEO などが回答した場合、それより下位の管理職よりも学歴などの属性による差異を除去しても、期待インフレは約 1%低かったという。
3.5.業種別期待インフレ
次に業種別の期待インフレ率を短観調査でみてみよう。まず、製造業と非製造業にわけてみると、両者の差は 0.1%ポイントにとどまっている(図表 14)。同様に計算した企業規模別の差異が大企業と中小企業で 0.6%ポイントであるのに比べると、相対的に小さな差異にとどまっている。次に、業種別のばらつきの特徴を時系列でみるため、各調査時点での製造業 業種、非製造業 17 業種の計 36 業種の期待インフレ率の標準偏差を算出し、時系列でプロットした(図表 15)。標準偏差が上昇するということは、業界間で期待インフレの見方のバラツキが拡大することを示している。標準偏差は、プレ・パンデミック期には、概ね安定的に推移してきたが、今次インフレ期においては、期待インフレ率の上昇と共に急激に高まっている。その後、標準偏差は、2022 年央にピークをつけた後、2024 年まで急激に下落しており、レベル的にも、2024 年 3 月には 2021 年初の水準にまで低下している。これに対し期待インフレ率は、2023 年初にピークをつけた後、下落に転じているが、2024 年初の段階でも、約2.5%と高止まりしており、両者の解離幅が拡大している。こうした現象は、インフレ期初期、すなわちパンデミックの初期の段階では、パンデミック特有の先行きの極度の不透明感が標準偏差の押し上げに寄与した反面、コロナ禍の沈静化とともに、こうした要因が剥落したため、標準偏差も急落したのではないかと考えられる。
短観の期待インフレを扱った先行研究でも、期待インフレのバラツキは、業種別より規模別でみた方が大きいと判断しているものが多い。次に、業種別標準偏差を 1 年先、3 年先、5 年先と重ねて表示した(図表 16)。これをみると、今次インフレ期で実際のインフレ率や期待インフレ率と同調するように業界間のバラツキが拡大したのは主に1年先にとどまり、3 年先、5 年先では比較的安定していたことがわかる。海外の調査では、上記のように詳細な業種別期待インフレ率を公表している先がないが、標準偏差値に関しては、米国のクリーブランド連銀が唯一公表している(図表17)。同調査は、調査時期が短いのが欠点だが、標準偏差は、今次インフレ期に期待インフレと同様、山型をしている。
3.6. 家計など他の経済主体との期待インフレの比較
これまで企業の期待インフレの特徴をみたが、他の主体との期待インフレ率の違いはあるのだろうか。この点を明らかにするために、短観と同じく日本銀行による「生活意識に関するアンケート調査」から家計の期待インフレ率を比較してみた(図表 18)。一見して、家計の期待インフレは、概ね CPI に沿った動きをしている企業のそれよりもかなり高いことわかる。つまり、期待インフレの値は、一貫して「企業<家計」となっている。仔細にみると、@各局面において、両者の方向性は概ね一致しており、CPI の動きとも整合的であること、A今次インフレ期において家計の期待インフレ率の上昇幅がとりわけ大きく、ピーク時にも、企業が 3%程度であるのに対し、家計は、10%程度に達していること、B今次インフレ期において、企業の期待インフレ率のピークアウトが家計よりも数期早いこと、などの特徴がみてとれる。なお、日本銀行作成の「経済・物価情勢の展望」(2024 年 4 月公表)には、企業、家計に加え、金融市場参加者、エコノミストによる期待インフレ率も掲載されている(図表 19)。企業の期待インフレ率は、金融市場参加者、エコノミストといったプロフェショナルの期待より高めに推移し、特に今次インフレ期においては、2%程度と、エコノミストらに比べるとかなり高めとなっている(形状が図表 18 と異なるのは、図表18 が1年先、図表 19 が 5 年先と予想期間が異なるため)。この間、家計の期待インフレは、プロフェショナルとほぼ同様の動きをしており、図表 19 だけをみると、「エコノミスト・市場関係者≒家計<企業」となってしまう。こうした現象が生じた原因は、家計の期待インフレの算出方法の違いによるものである。すなわち、データの出所である「生活意識に関する意識調査」では、5 年後の予想インフレの回答方法について、数値記入による回答方法と、変化方向とその程度に応じた 5 択問題を併用している。図表 18 では、直接の回答値(中央値)を用いているのに対し、図表 19 は、5 択の回答を一定の仮定を置いて数値化したものを示しており、その算出結果が約 1.5%弱という結果になったのである。あえて推計値を用いた理由として、日本銀行は、家計の回答傾向に、整数、5 の倍数、0%が多いなどの「回答の癖」があり、「単なる中央値では正確に捉えられないため」、としている。しかし、日銀が指摘した家計の回答傾向は、諸外国でも広くみられており、その原因は、選択肢の選び方や回答の癖といったテクニカルな問題ではなく、回答者が 5 択とは、(物価が)「かなり上がる」、「少し上がる」、「ほとんど変わらない」、「少し下がる」、「かなり下がる」である。数値化の方法は、修正カールソン・パーキン法という。回答に自信がない場合に広くみられる心理現象とされている。このため、回答者自身が曖昧な回答しかできない場合に、あえて難しい数学的な仮定を設けて 5 択問題の結果を無理やり数値化したとしても、回答の質を大幅に改善できるわけではなかろう。そのため、図表 19 にみるように、プロフェショナルとほぼ同値、というやや現実味に欠ける結果となったのではないかと考えられる。
そこで次に、企業、家計、プロフェショナルの期待インフレ率の関係を海外のデータで確認してみよう。まずカナダでは、カナダ中銀が家計、企業、エコノミストの予想物価上昇率を公表している(図表 20)。これをみると、やはり、「エコノミスト<企業<家計」の順で、我が国同様、今次インフレ期における家計の期待インフレ率の上昇が著しい。また、エコノミスト予測が 2%程度でインフレ期を含み安定定期に推移しているのも特徴的である。次に、調査主体は異なるが米国の動向をみると、三者の期待インフレ率はやはり「エコノミスト<企業<家計」となっている。なお、今次インフレ期で企業は、家計に近い高い上昇率を示している(図表 21)最後に、ノルウェーの例を見ると、直近を除き、他国同様、「エコノミスト<企業<家計」となっている(図表 22)。ただし、今次インフレ期においては、家計と企業の期待インフレ率が逆転し、企業が約 6%、家計が 4.5%程度となっている。このほか、先行研究をみても、2022 年に米国で公表された研究論文では、@「エコノミスト<企業<家計」の関係が一般に成り立つこと、A企業の予想インフレの形成過程は、家計とも専門家とも異なること、などの指摘がある。また、米国のクリーブランド連銀の論文でも、@企業の期待インフレは、総じて家計より低いこと、A回答の標準偏差も企業の方が家計より小さいこと(企業 2.50<クリーブランド連銀調査>、家計9.10<ミシガン大学調査>)、などと述べている。このほか、フランス中銀が 2021年に公表した論文では、企業の期待インフレは家計に比べて低く、バラツキも小さいと述べている(図表 23)。
以上のように、海外でも概ね、期待インフレ率は、「エコノミスト<企業<家計」との関係がみられており、図表 19 で示した日本銀行資料は、長期に亘って企業の期待インフレ率が家計のそれを上回っている点に違和感が残る。
4. 企業の期待インフレ形成過程
4.1. 企業の期待インフレ率に対するイメージ
第 3 章では、企業の期待インフレ率の特徴を紹介した。本章では、企業の期待インフレ形成過程について考察する。
その出発点として、企業が、先行きの物価動向をどの程度の確度をもって予測しているか、についてみる。第 3 章でみた短観の期待インフレ率に関する質問では、具体的な数値で回答できない企業に対し、「イメージを持っていない」という選択肢が用意されている。この回答割合が高いほど、先行きの物価動向を余り重視していない企業が多いと考えられる。こうした観点から「イメージなし」の回答割合をみると、予想期間が長期になるにつれ増加している(図表24)。具体的には、パンデミック前の段階で、1年先が15%程度、3 年先では倍の 30%前後、5 年先に至っては約 50%と約半数にも上っている。予想期
間が長くなるほど予測しづらくなることは、ある意味当然ではあるが、5年先で約半数にも上っていることには注意が必要である。また、各年限ともに、2020 年前半から急激に「イメージがない」企業の割合が更に5-10%ポイント程度上昇している。その後は、1 年先については、緩やかながら低下傾向を示しているものの、3、5 年先は 2024 年に至るまで依然高止まりしている。急上昇の原因を探るために、「イメージがない」と回答した理由をみると、殆どの回答者は、「不確実性」を挙げている(図表 25)。2020 年における不確実性の上昇とは、パンデミックの急拡大が原因であろう。次に、「イメージなし」と回答した企業を製造業・非製造業別にみると、パンデミック前を中心に製造業の方が高くなっている(図表 26)。これには、@製造業が直面する財の需給の方は、サービスの需給よりも大きく変動すること、A製造業の場合、海外の需給や為替相場などの影響も加わり、不確定要素の影響が相対的に大きいこと、などの理由が考えられる。0さらに、「イメージなし」の回答割合を企業規模別にみると、やや意外だが、大企業の方が、中堅・中小企業よりも10%ポイント以上高くなっている(図表27)。一般的には、大企業の方が、マクロ経済環境に関する情報などをより積極的に収集したり、長期の経営計画を策定したりして、経営判断に活かしている印象があるが、実際には、逆の結果となっている。
4.2. 期待インフレ率が企業経営に及ぼす影響
次に、期待インフレ率が企業経営上どのように利用されているか、について先行研究を利用して点検する。まず米国の研究で、「マクロの物価情報は企業経営にどの程度影響を及ぼすか」について尋ねたアンケート結果をみてみる(図表 28)。同図では、プレ・パンデミック期でインフレ率が比較的落ち着いていた 2015 年時点と、インフレ高進期の 2022 年が重ねてプロットしてある。まず 2015 年時点をみると、全体の 9 割がマクロの物価動向の影響は「なし」から「中程度」と低く評価していることが特徴的である。これに対しインフレ期の 2022 年時点を見ると、全体的に折れ線が右に厚くなっており、「影響なし」の割合が減る一方、「強い影響」が増えている。このことから、企業経営上、物価動向を重視する程度は一定ではなく、インフレ率上昇期に高まることがわかる。同じ研究論文では、企業の自社販売価格にとってマクロの物価動向はどの程度の影響を及ぼすかについても質問している(図表 29)。これをみると、「影響なし」が約半数にも上ることが意外であり、マクロの物価動向よりも生産コストの方が重視されていることが推察される。なお、上記は米国企業の場合だが、わが国の企業の場合、今次インフレ期以前には、企業はコスト上昇の価格転嫁が進まない状況が長期に亘っており、米国企業の置かれたマクロ環境とは異なっていることを勘案する必要があろう。
4.3. 企業の期待インフレ率の形成過程
短観調査や先行研究の結果から、企業の期待インフレ形成過程についてどのようなことが言えるのであろうか。
もし企業が完全合理的であるとすれば、第一に、企業規模や業種に関わらず期待インフレ率は同レベルに収束するはずである。しかし、短観調査の図表 10 でみたように、期待インフレは企業規模などによって無視し得ないバラツキが存在する。第二に、3.6.節でみたように、期待インフレ率の水準は、内外を問わず CPI の実績やエコノミストの予測を恒常的に上回って推移している場合が多い(図表 18、20、21、22)。期待インフレに上方バイアスが生ずる場合、予想形成の起点となる現状のインフレ認識(=インフレ実感)の把握が不十分な場合が多い。第三に、短観で業種別の期待インフレ率をみると、相当程度自社販売価格の影響を受けている(R2=0.65)。完全合理的であれば、両者は無相関となるべきである(図表 30)。このように、企業は合理的期待形成理論が仮定するように、経済状況を広範かつ詳細に把握した上で、期待インフレ率を完全合理的に算出しているわけではない。では、完全合理的でないとすると、逆に企業は過去のトレンドなどに従って機械的に期待インフレ率を算出している(適合的期待)のであろうか。既出の図表 28 によると、企業はパンデミックのような大きなショックやインフレ高進期には、予想インフレを重視するスタンスに転換しており、決して機械的に期待インフレを決定している訳ではない。また、短観の調査結果をみると、企業の短期・期待インフレには、投入コストの変動が影響を及ぼしており(R2=0.72)、単なる適合的期待形成ではないことがみてとれる(図表 31)。また、2013 年に行われたニュージーランドでの調査では、企業はモニターするマクロ指標に優先度合いを設けており、GDP データを監視している企業が約 80%に達するのに対し、インフレ率の場合は 50%以下であったという16。同調査ではまた、@専門家予想と比べた予測誤差は、優先度合いの高い GDP の方がインフレ率に比べ小さいこと、A競争が激しい業界に属する企業ほど、期待インフレ率の精度が高くなっていること、Bどの企業も業界に関するミクロの価格情報は豊富に有していたこと、などを指摘している。こうしたことからも、企業は機械的な価格予想をしている訳ではなく、完全とは言えないまでもある程度合理的な期待形成を行なっていることが窺える。
このように、完全合理的でもなく、完全に機械的計算でもない期待形成を整合的に説明する理論として注目されているのが、“rational inattention”(RI)である17。すなわち、企業は基本的には合理的であるが、全ての情報を収集するのではなく、情報入手や予測精度を高めるのにコストがかかる反面、経営上のインパクトが小さい経済指標については重視しないという、省力的な行動パターンをとると解釈するのである。つまり、「合理的に(価値の少ない情報を)無視する」と考えるのである。RI によると、企業は GDP やインフレ率などマクロ経済指標にプライオリティをつけて監視しており、各指標の優先度合いは、その時々のマクロ・ミクロ両環境によって変わり得る。マクロ環境の例でいえば、インフレ高進やパンデミックのように物価面で大きなショックが生じた場合には、期待インフレ率の優先度合いが高まる。逆にプレ・パンデミック期にように長期に亘る低インフレ期には、関心度合いは低下する18。また、ミクロ環境の例でいえば、業界内の競争状態や投入コストの変動が激しくなるにつれ、優先度合いは高まる。また、別の先行研究によると、高インフレ国(ウルグアイ、ウクライナ、アルゼンチン)の企業は、米国やニュージーランドなど低インフレ国の企業よりも、インフレ率の動向を経営上重視し、期待インフレ率の形成にも手間をかけることがわかっている。また、米国の研究では、パンデミック後のインフレ高進現象については、企業の方がエコノミストより早期に予測していたとの報告もある。これは、エコノミストがインフレ率上昇を供給不足による一時的な現象と見做していた一方、企業はサプライチェーンの脆弱化を見越して、インフレの長期化を予測していたことによるものである。
4.4. 企業の期待インフレはアンカーされているか
「期待インフレがアンカーされている」とは、主に長期の期待インフレ率が短期インフレ率変動の影響をあまり受けずに、中央銀行のインフレ目標(2%程度が多い)に近い水準で安定的に推移することをいう21。プレ・パンデミック期には、インフレ率が低位で安定していた先進国が多く、こうした経済では、期待インフレ率も比較的安定的に推移していた。このため、こうした時期を対象としている先行研究の中には、期待インフレ率はアンカーされていると評価したものも存在する。しかし、今次インフレ期に入ると、インフレ率上昇にまず短期の期待インフレが大きく反応し、つれて本来安定的であるべき長期インフレ率にも上昇傾向が見られたケースが殆どである。具体的には、これまでに掲載した図表でも、わが国(図表 2<再掲下図>、イタリア(図表 13)、英国(図表 8)、ノルウェー(図表 22)、カナダ(図表 20)など、2 年先以上の長期期待インフレ率が軒並み上昇している。このため、わが国をはじめ多くの先進諸国では企業の期待インフレ率はアンカーされているとは言い難い。先行研究でも同様に、期待インフレはアンカーされていないと報告しているものが殆どである。また、そもそも、アンカーの目処となる中央銀行のインフレ目標を認知している企業も、わが国と米国で約 25%、25 年間インフレ・ターゲット政策を続けているニュージーランドでも 1/3 程度といずれも半数に届かない状態である。なお、Candia et al. (2021)では、期待インフレがアンカーされている条件としてより具体的に以下の 5 項目を挙げているので項目毎にみてみよう。
@ 期待インフレの平均値がインフレ目標に近いこと……わが国の場合、インフレ目標は 2%だが、図表 2<再掲>のように、5 年先で、プレ・パンデミック期は、1%未満、インフレのピーク期には、3%弱と、いずれも 2%近傍にはない。
A 期待インフレのばらつきが小さいこと……海外の研究例を見ると、バラツキ、すなわち標準偏差は、家計よりはかなり小さいものの、エコノミストの予測よりはかなり大きくなっている。
B 企業が自身の予測に自信を持っていること……図表 24 に示したように短観で期待インフレを尋ねた場合に、5 年先については約半数が「イメージなし」と回答しているなど、自信があるようには窺えない。
C 長期を中心に期待インフレがあまりぶれないこと……図表 2 の再掲で示したように、5 年先の長期をみても、プレ・パンデミック期には、1%程度、インフレ期には、3%弱と安定しているとは言い難い。
D 長期と短期のインフレ率は似たような動き(comove)しないこと……短観で長期/短期の期待インフレの前期差をプロットすると、相応の相関関係(R2=0.77)が認められる。つまり、両者はかなりの程度comove している(図表 32)。
上記のように、期待インフレ率のアンカーに関する 5 条件に照らしても、企業の期待インフレはアンカーされているとは言えない25。
5. おわりに
本稿では、今次インフレ期における企業の期待インフレの特徴や期待形成について考察した。
なお、企業の期待インフレに関するデータは内外ともに非常に限られており、先行研究も少ない。こうした状況は 2010 年代以降、企業の低インフレ期における価格設定行動などに関心が集まるにつれて徐々に変わりつつあり、わが国を含め企業の期待インフレ・データを収集する試みが広がった。本稿の分析の結果を改めて整理すると以下の通りである。
第一に、わが国企業の期待インフレの動向を短観調査でみると、プレ・パンデミック期には、各年限とも 1%前後で推移した後、今次インフレ期に入ると急激な上昇傾向を辿り、ピーク時には 1 年先で 3%、5年先でも 2%強に達した。企業規模別にみると、大規模企業ほど、期待インフレ率は低くなる一方、業種別には、規模別ほど大きな特徴はみられなかった。また、他の経済主体の期待インフレ率と比べると、「エコノミスト・金融市場関係者<企業<家計」の順となった。さらに、企業は 5 年先インフレ率については約半数が不確実性を理由に、「イメージがない」と回答しており、パンデミック期入り後に、その割合は更に 5-10%ポイント程度上昇している。
第二に、企業の期待形成のあり方については、完全合理的期待にも、適合的期待にもなっていない。これは、前者の反証として、@企業規模などによるインフレ率の
バラツキ、ACPI 等に対する上方バイアスの存在、B自社販売価格と期待インフレ率との間の相関関係、などが挙げられる一方、後者の反証として、@企業は、インフレ高進期に期待インフレ率を重視するスタンスに転換していること、A投入コストの動向が期待インフレに影響を及ぼしていること、などが挙げられるためである。こうした現象を整合的に説明する理論として、“rational inattention” (RI)が注目されている。RI では、企業は「合理的に(価値の少ない情報を)無視する」と考える。そして、期待インフレの扱いは、インフレ率が高まったり、投入コストの変動が大きくなったりすると、優先的に扱われるようになる一方、プレ・パンデミック期のわが国経済のように低インフレ状態が長期に亘って続くと優先度が低下する。
第三に、期待インフレがアンカーされているか(金融政策のインフレ目標付近で安定的に推移している状態)を検証すると、今次インフレ期入り後、長期の期待インフレについても明確な上昇傾向を示しており、アンカーされているとはいえない。これはわが国のみならず英国、イタリア等他の主要先進国についても同様である。
こうした企業の期待インフレの特性は、中央銀行の政策コミュニケーションにも課題を投げかける。具体的には、@期待インフレ率の上方バイアスが大企業よりも大きい中堅・中小企業に対する効果的なリーチの方法、A低インフレの持続時など、企業の物価動向に対する関心が低下した状況下で、どのように政策コミュニケーションを働きかけるべきか、B企業の期待インフレに持続的な影響を及ぼすことができるような、反復的なコミュニケーション手法の確立26、などが挙げられる。
以 上
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