インフォテイメント研究所


家計の期待インフレ率の異質性
本稿では、家計の期待インフレ率の異質性を検証し、期待インフレ率に関しては、完全合理性が成り立っていないことを明らかにする。完全合理性の下では、期待インフレは利用可能な全情報を用いて形成されるため、家計の各種属性に関わらず同一数値に収斂する。しかし、実際のサーベイ調査をみると、属性により期待インフレ率はかなり異なっており、完全合理性を満たしていない。属性別にみた期待インフレの特徴は以下のとおりである。@性別に見ると、男性の期待インフレ率の方が低い、A収入区分別に見ると、収入が高くなるにつれ期待インフレ率は低下、B学歴別に見ると、高学歴になる程、期待インフレ率は低い、C就業形態別に見ると、年金所得者や無職者の期待インフレが高い、D年齢別に見ると、わが国では年齢区分が上がるほど期待インフレ率も上昇する傾向がみられた反面、他の先進国を含めると共通した傾向は見られなかった。このような期待インフレ率の異質性は、中央銀行の対外発信活動においても留意を要する。すなわち、対外コミュニケーションを効果的に推進するためには、期待インフレ率の上方バイアスが大きな属性、すなわち、女性、低収入層、低学歴層、高齢層(わが国の場合)などにターゲットを絞る必要がある。

1. はじめに
日本経済は長期間、低インフレ期を経験した。代表的な物価指標である消費者物価指数(CPI<除く生鮮食品、消費税率引上げ調整後>)は、概ね?2%から+2%弱のレンジで推移した。しかし2021年入り後、CPI は突如上昇基調に転じ、2023 年 1 月には前年比+4.1%に達した。2024 年 10 月時点においても+2.3%と、日本銀行のインフレ目標を上回る高い伸びが続いている。 こうした最近のインフレ状況は、経済的には様々な問題をもたらす一方、マクロ経済分析の観点からは、物価の低位安定期には観測できなかった新たな分析の機会をもたらした。その一つが期待インフレに関する研究である。期待インフレは、経済活動において重要な役割を果たしているが、既存の研究は金融市場やエコノミストに偏っており、家計や企業についてはわが国のみならず、海外諸国においても十分な解明が進んでいるとはいえない。 そこでインフォテイメント研究所では、家計の期待インフレについて、「今次インフレ期における家計の期待インフレの不安定性」(2023/11月公表)、「わが国家計のインフレ実感:形成過程と期待インフレ率との関係」(2024/2月)および「家計の非連続的なインフレ関心度合い:閾値モデルによる実証」(2024/9月)の3作を公表した。また、企業の期待インフレについても、「今次インフレ期における企業の期待インフレ率」(同2024/6 月)を発表している。
続く本稿では、家計の期待インフレ率の異質性を検証し、期待インフレ率に関しては、完全合理性が成り立っていないことを明らかにする。 経済学でしばしば想定される完全合理性では、経済主体は利用可能なすべての情報を用いて期待インフレを形成する。このため、期待インフレは、経済社会的な属性、例えば、性別・収入別・年齢別・学歴別などに拘らず同一数値に収斂する。しかし、実際のサーベイ調査を見ると、属性に応じて人々の期待インフレ率は異なっており、かつ、こうした傾向は、先進各国で共通してみられる。 家計の期待インフレ率を属性別に検証した結果は以下のとおりである。@ 性別に見ると、男性の期待インフレ率の方が低い傾向が各国でみられた。その背景には、女性が日常の購買行動を担当することが多いため、インフレ実感が高くなることが影響していると考えられる。 A 収入区分別に見ると、収入が高くなるにつれ期待インフレ率は低下した。これには、収入が高いグループほど金融リテラシーが高くなることが関係している。  B 学歴別に見ると、高学歴になる程、期待インフレ率は低かった。これには、収入区分別と同様、高学歴になるにつれ金融リテラシーが向上することが関係している。 C 就業形態別に見ると、年金所得者や無職者の期待インフレが高い。これは、マクロの価格情報に接する機会が他の就業形態に比べ少ないことが影響していると考えられる。 D 年齢別に見ると、わが国では年齢区分が上がるほど期待インフレ率も上昇する傾向があるが、他の先進国では逆の関係にあったり、横這いであったりする例も見られ、共通した傾向は見られなかった。 このほか、期待インフレ率と消費者態度、気候変動問題、中央銀行への信頼度との間にも相関関係があることを紹介している。 上記のような、家計の期待インフレ率の異質性は、中央銀行が対外発信活動を行う上でも留意すべきである。すなわち、対外コミュニケーションを効果的に行うためには、期待インフレ率の上方バイアスが大きな属性にターゲットを絞った戦略を取ることが望ましいからである。具体的には、女性、低収入層、低学歴層、高齢層(わが国の場合)などであり、属性の特性上、極力平易な文章を用いたり、専門用語を使ったりしない、といった配慮が求められる。 本稿の構成は以下の通りである。まず第 2-7 章では、家計の期待インフレについて、性別、収入区分別、学歴別、就業形態別、年齢別等、各種属性に基づき検証する。第 8 章は、終章であり、期待インフレの異質性に基づき、効果的な中央銀行の情報発信のあり方を議論する。

2. 性別による期待インフレ
属性の第一として、男女別の期待インフレを採り上げる。わが国家計の代表的な期待インフレ調査である日本銀行の生活意識調査は、属性別のデータを公表していない。そこで、内閣府による消費動向調査のデータ(1 年後期待インフレ)を用いる。ただし、同調査では、「10%以上下がる」から、「10%以上上がる」までの9分類と「わからない」を合わせ10 項目から選択する形式となっており、具体的な数値では示されてい ない。このため、本稿では、脚注1に示した方法で定量化した1。 この結果、統計が利用可能な2013年4月から2024年8月までの期間平均の男女別期待インフレ率を算出すると、男性+3.6%、女性+3.9%と女性の方が高くなった。 次に米国では、ミシガン大学とニューヨーク連銀が家計の期待インフレを調査しているが、性別データは、ミシガン大学の“Survey of Consumers”のみが公表している。調査期間1991 年 1 月から 2024 年 7 月までの平均(1 年先予想)でみると、男性が+2.9%、女性が+3.3%とやはり女性が高くなっている。5 年先予想についても男性が+2.9%、女性が+3.1%とこちらも女性が高くなっている。 続いてユーロ圏については、ECB の“Consumer Expectation Survey”が利用可能である。2023年(1年先予想値)で、男性が+3.9%、女性が+4.3%となっている。また、英国については、イングランド銀行の“Inflation Attitude Survey”が家計のインフレ予想を調査しており、2024 年 8 月調査によると、男性が+2.8%、女性が+3.0%とやはり女性が高くなっている。さらに、ドイツについては、ドイツの中央銀行であるブンデスバンクの“Survey on Consumer Expectation”が利用可能で、男性が+5.3%、女性が+5.9%となっている(2024年8月調査)。 以上の結果をまとめたものが図表1である。 このように、各国に共通して期待インフレ率は、男性よりも女性が高くなっている。そもそも家計の期待インフレは、CPI などマクロの物価状況に基づき算出されるというよりは、日常生活上、頻繁に購入する食料品やガソリンの価格など肌身感覚の物価状況(インフレ実感)に大きく左右されることが知られている。このため、ある研究では、女性が日常的に買い物をする家庭では、こうした男女差が明確に観察される一方、男性がその役割を担っている場合には、期待インフレの性差はほぼ解消されると報告されている。つまり、期待インフレの差異は、男女間の本源的な違いというよりも、購買活動を誰が担っているか、という生活様式に大きな影響を受けている。 なお、こうしたメカニズムの詳細については、インフォテイメント研究所論文「わが国家計のインフレ実感:形成過程と期待インフレ率との関係」を参照されたい。

3. 収入別期待インフレ
次に、家計の経済的な属性、具体的には収入別にみた期待インフレ率の状況をみてみよう。まず、わが国の状況を「消費動向調査」によってみると、収入が高くなるほど期待インフレ率は低下しており、期間平均値でみると、年収 300 万円未満が+3.9%であるのに対し、同1,200 万円以上では、+2.9%と1%ポイントもの差が生じている(図表2)。ちなみに直近の2024年8月調査でも、年収300万円未満が+5.2%であるのに対して、同1,200 万円以上は、+3.9%と1.3%ポイントの差が生じている。
米国家計については、ミシガン大学調査と NY 連銀調査の双方が利用可能である(図表 3)。階級区分がいずれも 3 区分と粗いが、両調査においても、わが国同様、収入区分が上がるほど、期待インフレ率は低下しており、特に NY 連銀調査では、下位区分と上位区分の差が顕著である。 次に、欧州の動向を見ると、ユーロ圏、英国ともに収入階級が上がるほど、期待インフレ率は低下している(図表 4)。ユーロ圏の場合、特に収入の下位20%層の期待インフレ率が傑出して高くなっている。同様に、ドイツにおける調査でも所得区分が上がるにつれ、期待インフレ率は低下している(図表5)。 なお、カナダ中銀の調査では、収入区分別に期待インフレ率とインフレ実感の双方を調査している(図表 6)。これをみると、期待インフレ率のみならず、インフレ実感も収入階層が上がるにつれ、低下していくことがわかる。こうした収入と期待インフレの関係は、金融リテラシーや学歴など金融経済に関する知識の多寡が媒介することで生じているものと考えられる。 例えば、わが国の金融広報中央委員会の「金融リテラシー調査」の結果を見ると、収入階級が高くなるほど、金融リテラシーが向上している(図表 7)。すなわち、収入階級が高いほど、金融リテラシーも高く、これが期待インフレの上方バイアスを縮小させる方向、すなわち期待インフレの低下という形で作用すると思われる。なお、こうした金融リテラシーを通じたルートは、次節で見るように、わが国のみならず他国でも同様に観察される。

4. 金融リテラシー・学歴別の期待インフレ
前節では、「金融リテラシーが高いほど、期待インフレ率も低下」という関係性を想定したが、両者の関係を直接調査した例は、下記のオーストラリアの一例に止まった(図表 8)。同図をみると、経済リテラシー(経済全般に関する知識の理解度)と期待インフレの間には、明確な逆相関が見られる。 ちなみに、海外では、金融リテラシーとも関係がある数学的能力(numeracy)と金融リテラシーの関係を調査したものがみられる(図表9)。その調査結果をみると、カナダでは、数学的能力が高いグループの期待インフレ率が低い一方、米国の例では、両者に明確な差が見られなかった。こうした結果には、数学的能力の測定方法など技術的な違いなども影響していると思われるが、さらなる調査が必要であろう。 また、海外では、学歴と期待インフレの関係を検証したものが比較的多く見られる(図表10,11)。米国については、ミシガン大学調査とNY連銀調査の双方が利用可能であり、いずれも、学歴が向上するにつれて、期待インフレ率は低下しており、特に調査期間が短い右図のNY連銀調査では、大学卒業以上のグループの低下幅が大きくなっている。 同様に、英国やドイツといった欧州の中央銀行が行った調査をみても学歴が上がるにつれ、期待インフレ率は低下している。  なお、学歴と期待インフレの関係についても、所得と期待インフレの関係で見たように、媒介変数として金融リテラシーが介在しているように思われる。学歴と金融リテラシーの間には、下記のわが国の研究例のように学歴が向上すると金融リテラシーも改善する関係が見られ、学歴→金融リテラシー→期待インフレという関係が成り立っている。

5. 就業形態別の期待インフレ
本節では、就業形態別の期待インフレを観察する。まず、わが国の「消費動向調査」では、所得種類別(給与所得、事業所得、年金所得)と就業形態別(勤労世帯、自営業者、無職)の二通りの期待インフレ率が得られる(図表13)。 所得種類別では、年金所得者だけが給与・事業所得者に比べて高くなっている。年金所得者の平均年齢は、他のグループに比べて高いため、期待インフレの高さには、次節で見る年齢と期待インフレの関係が影響しているように窺われる。 次に、就業形態別に見ると、無業者の期待インフレ率が勤労世帯や自営業者に比べ高くなっていることが目立つ。具体的なエビデンスはないが、勤労世帯や自営業者は、仕事などを通じて日常的な価格動向やマクロ経済状況に関する情報を比較的入手し易いのに対して、無業者の場合は、情報入手の機会が限られることが期待インフレ率の高さに影響しているのではないかと思われる。 海外の調査例では、イングランド銀行が就業形態別の期待インフレ率を公表している(図表 14)。これを見ると、期待インフレ率が最も低いのがフルタイム従事者で、ついでパートタイム、自営業、退職者と続く。わが国の例と同様に、無職者の期待インフレ率が相対的に最も高くなっている。こうした期待インフレ率の違いも、日常生活における価格動向の把握状況やマクロ経済に対する関心度合いなどが影響しているものと考えて良いであろう。

6. 年齢別の期待インフレ
最後に、年齢との関係をみてみよう。年齢別の期待インフレ率は比較的多くの国で調査されている。まずわが国について「消費動向調査」のデータを示す(図表15)。10 歳刻みで期待インフレ率が計測されているが、若年世代が最も低く、60代まで一貫して上昇し、70年代で幾分低下に転ずる姿となっている。 次に、米国の例をみると、調査主体によってパターンに差が見られる(図表16)。すなわち、左図のミシガン大学の例では55歳以上の区分が幾分高くなっているが、総じて 3%前後で横這いである。一方、右図のNY 連銀調査では、年齢区分がミシガン大学とは異なるが、年齢区分が上がるにつれ期待インフレは明確に上昇しており、わが国のパターンに類似している。 欧州の例をみると、まず英国では、1年先予想では、45?55歳をピークに低下している一方、より長期の5年先予想では均してみればほぼ横這いである(図表17)。また、右図のユーロ圏では、わが国や米国のNY連銀調査と同様、年齢と期待インフレ率が正の相関関係にある。 また、ドイツでは、年齢とともに期待インフレ率が上昇していくのに対し、北米のカナダでは、他国と異なり、若年層の期待インフレ率が最も高い(図表18)。 このように、年齢区分と期待インフレの関係は各国で幅広く調査されているが、両者の関係は、正、負、ほぼ無相関と多様で、他の属性と異なり共通項を見出すことができなかった。なお、年齢と期待インフレの関係について、過去に実際に経験したインフレ率がその後も長期に亘って期待インフレ率に影響を及ぼすことが知られている。古くはドイツの大戦期間のハイパーインフレ、わが国の太平洋戦争直後や日米両国の 1970 年代前半の高インフレ期などの体験が、経験者層の期待インフレを押し上げると考えられる。ちなみに、わが国の年齢別の生涯平均インフレ率を試算してみると、高齢者ほど、上記インフレ期を経験しているため、インフレ率が高くなっており、図表 15 と整合的な形となっている。 もっとも、米国のミシガン大学の調査では両者は無相関に近く、カナダのように明確な逆相関も例もあり、過去のインフレ経験だけで説明できるわけではない。 別の経済学的アプローチとして、インフレ実感が世帯によって異なっている影響を挙げる向きもある。すなわち、子供の有無や世帯人数、勤労世帯か引退世帯か、など家計の様々な構成要素の違いによって、家計の消費構成も異なり、ひいてはインフレ実感にも差が生じる。そしてインフレ実感は期待インフレに大きな影響を及ぼすことが
知られているためである。ただし、もしこうした関係が支配的であれば、年齢と期待インフレの間には国の違いを問わず共通した関係が見られるはずであるが、前述の通り、現実はそうはなっていない。 このように、年齢と期待インフレ率の関係については、複雑な要因が影響していると考えられ、より詳細なデータ分析が必要である。

7.その他の要因と期待インフレの関係
基本的な属性以外にも様々な要素と期待インフレの関係が検証されている。まず、家計調査では、期待インフレと同時に生活満足度についても質問しているものがあるので、期待インフレとの関係をみてみよう。 まず、わが国の「消費動向調査」で性別・年齢別・収入別といった属性別クロスセクション・データを用いて期待インフレ率と消費者態度指数(今後の暮らし向きなどに関する消費者の意識、数値が大きいほど良好)の関係をみると、消費者態度指数が高い属性ほど、期待インフレ率が低いという関係が観察された(図表20)。 同様に米国について、ミシガン大学調査と NY 連銀調査で消費者態度(ミシガン大学)・予想収入伸び率(NY 連銀)の関係をプロットすると、わが国同様、暮らし向きの満足度が高い属性ほど、期待インフレ率が低くなっている(図表21)。
こうした関係は、暮らし向き満足度と関係が深い収入状況が大きく影響していると考えられる。ちなみに消費者動向調査で見ると、満足度は収入と比例する一方、年齢とは逆比例、また男女別では男性の方が高くなっている。同様に、ミシガン大学調査では、収入・学歴とは比例、年齢とは逆比例し、男女別では男性が高くなっている。
このほか、Brouwer and Haan (2022)は、オランダ家計の個票データに基づき、ECB に対する信頼度(10 段階)と期待インフレの関係を分析している。その結果、ECB
への信頼度が高くなるほど、期待インフレは低下し、ECB のインフレ目標である 2%に近づくという結果を得ている。
また、Meinerding et al. (2022)は、ドイツ家計を対象に気候変動問題への関心度合いと期待インフレ率の関係を調査しており、関心度が高くなるほど、期待インフレ率が低下するとの関係を検出している。同分析によると、気候変動問題に関心が高い層は、ECB など公的機関への信頼度が高くなる傾向があり、それが期待インフレ率にも影響を与えていると述べている。

8. おわりに--期待インフレの異質性と中央銀行の情報発信の重要性
本稿では、家計の期待インフレ率は異質性が高く、期待インフレ率に関しては、完全合理性が成り立っていないことを明らかにした。
経済学では、しばしば完全合理性を用い、期待インフレは、利用可能な全ての情報を反映される想定とする。この場合、期待インフレは、経済社会的な属性、例えば、性別・収入別・年齢別・学歴別などに拘らず同一数値に収斂することになる。しかし、本稿で示したように、現実には、属性による家計の期待インフレ率の異質性が各国に共通して観察されている。このことは、期待インフレが完全合理性を満たしていないことを示している。インフォテイメント研究所がこれまでに公表した家計の期待インフレに関する論文でも同様の結果が得られている。 本稿で検証した家計の期待インフレ率の異質性を改めて整理すると以下のとおりである。
@ 性別に見ると、男性の期待インフレ率の方が低い。その背景には、女性が日常の購買行動を担当することが多く、インフレ実感が高くなることが影響している。
A 収入区分別に見ると、収入が高くなるにつれ期待インフレ率は低下する。これには、収入が高いグループほど金融リテラシーが高くなることが関係している。
B 学歴別に見ると、高学歴になる程、期待インフレ率は低い。これには、収入別と同様、高学歴になるにつれ金融リテラシーが向上することが関係している。
C 就業形態別に見ると、年金所得者や無職者の期待インフレが高い。こうした層は、マクロの価格情報に接する機会が他の就業形態に比べ少ないことが影響していると考えられる。
D 年齢別に見ると、わが国では年齢区分が上がるほど期待インフレ率も上昇しているが、他の先進国では下降していたり、横這いであったりする例があり、共通した傾向は見られなかった。
このほか、期待インフレ率と中央銀行信頼度、気候変動問題への関心度、消費者態度指数との関係についても紹介した。
中央銀行は、対外発信活動を行う上でも家計の期待インフレ率の異質性に留意すべきである。すなわち、金融政策の有効性は、経済主体の期待インフレが中央銀行のインフレ目標に近くなる程が高まるとされている。このため、対外コミュニケーションを効果的に推進するためには、期待インフレ率の上方バイアスが大きな属性にターゲットを絞ることが望ましい。具体的には、女性、低収入層、低学歴層、高齢層(わが国の場合)などであり、属性の特性上、極力平易な文章を用いる、専門用語を使わない、と
いった配慮が求められる。日本銀行の調査では、家計の 5 割超が、日本銀行の説明が「わかりにくい」と回答しており、その理由としては、「説明が難しい」がトップとなって
いる(46%:重複回答あり)。
また、家計にアプローチする場合、内容もさることながら、いかにして当該層にリーチしていくか、が大きな問題となる。まず情報の供給サイドの問題として、現状、中央銀行の金融政策等に関する情報発信は、テレビや新聞発表などメディアに大きく依存している。現在、多くの中央銀行が SNS を活用した直接アプローチを行なっているが、依然浸透度合いは低い。どのようなツールがターゲットを絞った情報発信に有効か、が今後の大きな課題となろう。また、実証実験の結果、家計が一旦金融政策に関する
各種情報(現状のインフレ率や中央銀行の金融政策、インフレ目標)に接すると、期待インフレを有意に下方修正することが確認されている。ただし、こうした効果は最大でも6 ヶ月程度にとどまるため、反復したアプローチが必要となる。 次に、情報の需要側の問題もある。インフォテイメント研究所の論文でも示したように、家計はインフレが低位安定している状況下では、物価動向に関する関心が総じて低く、インフレが高進して初めてアクティブに情報入手や理解を行うようになる。こうした家計の「合理的無関心」は、中央銀行の情報発信に大きな障害となりうる。日本銀行のアンケート調査(2024/9 月)でも、「2%の物価目標を知らない」との回答が約 74%、「日銀の活動に日頃から関心はない」が 68%という高い割合となっている。関心を持たない家計に情報を提供しても、受け入れられることは極めて難しい。そして「合理的」無関心というように、家計は、限られた認知能力を生活に重要な事項に優先的に割り当てているのであって、それを覆すのは容易ではない。このように、家計や企業を対象とした中央銀行のコミュニケーションを効果的に行うためには、多くの課題が存在する。このため、中には家計や企業への情報発信は効果が極めて薄いため、注力しても仕方がない、という極論もみられる。しかしながら、そもそも中央銀行が積極的な対外発信に転じたのは、1990 年代以降と比較的最近のことである。しかも、これまでの情報発信の対象は、エコノミストや金融市場関係者など中央銀行のモニターを専門としているグループが念頭に置かれており、家計や企業を対象とした広報の必要性が注目され始めたのは、世界金融危機発生後の 2010 年代以降に過ぎない。このため、基礎となるデータ蓄積が未だ少なく、企業を対象とした調査に至っては、調査自体が行われていない、ないし、分析に必要な調査項目が含まれていない、といった状態にある国が多い。
従って、まずは、家計や企業の実態について、サーベイ調査の拡充や RCT の工夫などでデータを蓄積することが最優先課題である。その際には、期待インフレ率の形成過程に関する分析に注力すべきである。これは、@家計が経済の最大の購買者であるとともに、賃金決定とも深く関わっていること、A企業は、自社製品の価格設定者であり、マクロの物価動向との関連性が高いこと、が理由として挙げられる。 インフォテイメント研究所としても、今後も中央銀行の家計や企業を対象とした情
報発信のあり方について期待インフレ率の問題を中心に分析を進めていく所存である。

以 上
(参考文献)
中央金融広報委員会(2022)「金融リテラシー調査」
内閣府「消費動向調査」各年
内閣府「消費者物価指数」各年
福原敏恭 (2024)「わが国家計のインフレ実感:形成過程と期待インフレ率との関係」、 インフォテイメント研究所、2024 年 2 月  
Bank of Canada “Canadian Survey of Consumer Expectations”
Brouwer and Haan (2022) “Trust in the ECB: Drivers and consequences” European Journal of Political Economy 74 (2022)
D’Acunto et al. (2021a) “Gender roles produce divergent economic expectations,” Proceedings of the National Academy of Sciences 118 (21)
ーーー (2021b) “Exposure to grocery prices and inflation expectations” Journal of Political Economy 129(5)  
Federal Reserve Bank of Australia (2024) “Inflation Expectations and Economic Literacy,” Bulletin, January 2024
Federal Reserve Bank of New York “Survey of Consumer Expectations”
Meinerding et al. (2022) “Inflation Expectations and Climate Concern”, C. Meinerding,
A. Poinelli, Y. Schuler, Deutsche Bundesbank Discussion Paper No.12/2022
Sticha and Sekita (2023) "The Importance of Financial Literacy: Evidence from Japan" Journal of Financial Literacy and Wellbeing (2023) 1, 244-262
University of Michigan “Survey of Cons



家計の非連続的なインフレ関心度合い:閾値モデルによる実証
(サマリー)

本稿では、物価上昇率が閾値を超えると、家計のインフレ関心度合いが高まっていくという合理的無関心仮説(RIH)を閾値モデルによって検証した。その結果、第一に、家計のインフレ関心度合いを表す代替変数として、グーグル・トレンドの“inflation”の検索指数が有効であった。閾値モデルにより、インフレ関心度合いが高まり始める閾値は、米国で+3.0%、わが国で+1.5%と推計された。わが国では長らく低インフレが続いたため、今次インフレ期のデータを含めないと安定した閾値は算出できなかった。また、検索用語は、「インフレ」、「インフレーション」よりも「物価」の方が安定的な推計結果が得られた。第二に、同様の推計手法を用いて、21か国の閾値を推計した。閾値が低い国は、スイス(+1.0%)、日本(+1.5%)であった。その他多くの国は、+2.5%から+3.5%のレンジに入っており、中央銀行のインフレ目標である2%や1-3%を少し超過したところに閾値が並んだ。また、計測期間の平均インフレ率と閾値の水準には低インフレ国が多い先進諸国のみならず、新興国の高インフレ国を含めた場合でも安定した相関関係が観察された。第三に、上記推計の頑健性を確認するため、家計の期待インフレに関するアンケート調査から「わからない」の回答比率を用いて別途閾値を計算した。その結果、日米ともに、グーグル・トレンドから求められた閾値と一致した。なお、閾値の存在は、低インフレ時のフィリップス曲線のフラット化など金融政策上のインプリケーションを有する点にも留意が必要である。

1. はじめに

日本経済は長期間、低インフレ期を経験した。代表的な物価指標である消費者物価指数(CPI<除く生鮮食品、消費税率引上げ調整後>)は、概ね?2%から+2%弱のレンジで推移した。しかし2021年入り後、CPI は突如上昇基調に転じ、2023 年 1 月には前年比+4.1%に達した。2024 年 7 月時点においても+2.7%と、依然高い伸びが続いている。 こうした最近のインフレ高進は、経済的には様々な問題をもたらす一方、マクロ経済分析の観点からは、物価の低位安定期には観測できなかった新たな分析の機会をもたらした。その一つが期待インフレに関する研究である。期待インフレは、経済活動において重要な役割を果たしているが、期待形成プロセスについては十分な解明が進んでいるとはいえない。 インフォテイメント研究所では、家計の期待インフレについて、「今次インフレ期における家計の期待インフレの不安定性」(2023/11月公表)および、「わが国家計のインフレ実感:形成過程と期待インフレ率との関係」(同 2024/2 月)を公表した。また、企業の期待インフレについても、「今次インフレ期における企業の期待インフレ率」(同2024/6 月)を発表している。 本稿は、こうした期待インフレに関する調査の一環として、家計の合理的無関心仮説(rational inattention hypothesis (RIH))を定量的に分析した。RIH とは、期待インフレ形成モデルの一種で、「人々の認知能力には限界があるため、情報収集や処理を行うのは優先度の高い事項に限り、そうでないものには無関心となるのが合理的行動である」という考え方である。 従来、関心度合いを示す具体的な指標が見当たらず、RIH の定量的な評価が進まなかったが、近年グーグル・トレンドの検索数を用いる手法が開発された。推計には閾値モデルを用いて、家計は一定のインフレ率(閾値)を下回った状態ではインフレ率に比較的無関心な一方、一旦閾値を超えるとインフレの高まりに応じて関心を高めていくという非連続的な特性を確認する。本稿ではこうした分析手法によって、以下の3 点を明らかにした。 第一に、グーグル・トレンドによる“inflation”の検索指数は、家計のインフレ関心度合いを表す代替変数として有効である。閾値モデルによる推計により、インフレへの関心度合いが高まり始める閾値は、米国で+3.0%、わが国で+1.5%と推計された。わが国では長らく低インフレが続いたため、今次インフレ期のデータを含めないと安定した 閾値は算出できなかった。また、検索用語は、「インフレ」、「インフレーション」よりも「物価」の方が安定的な推計結果が得られた。 第二に、同様の推計手法を用いて、21 か国の閾値を推計した。閾値が低い国は、スイス(+1.0%)、日本(+1.5%)であった。その他多くの国は、+2.5%から+3.5%のレンジに入っており、中央銀行のインフレ目標である2%や1?3%を少し超過したところに閾値が並んだ。また、計測期間の平均インフレ率と閾値の水準には低インフレ国が多い先進諸国のみならず、ウルグアイ、トルコ等高インフレ国を含めた場合でも安定した相関関係が観察された。 第三に、上記推計の頑健性を確認するため、家計の期待インフレに関するアンケート調査から「わからない」の回答比率を用いて別途閾値を計算した。その結果、日米ともに、グーグル・トレンドから求められた閾値と一致し、頑健性が確認された。本稿の構成は以下の通りである。まず第 2 章では、グーグル・トレンドの検索数を用いてインフレ関心度合いの閾値を推計する。続く第3章では、21か国の閾値を求めて閾値と平均インフレ率の関係を明らかにする。第4章は、頑健性の検証として、家計のサーベイ調査を利用する。第 5 章では、閾値の存在が金融政策にもたらす含意を整理する。第6章は、終章である。

2. 閾値モデルによる推計
2.1. 完全合理性が成り立たない現実の期待形成

期待インフレは、家計の経済活動に大きな影響を与えている。例えば、消費財・サービスの買い時判断、住宅や自動車などのローン金利動向や賃金決定過程など幅広い影響を及ぼしている。 期待インフレは経済学でも重要視されており、理論的には、完全合理的に形成されると考えられることが多い。完全合理的とは、経済活動に必要な全ての情報にアクセス可能で、それら情報に基づいて常に最適な選択を行うことができることを指す。 しかしながら、家計の期待インフレ率は、専門家の期待インフレや実際の物価動向と大きく乖離することが多い。例えば、家計の1年後の期待インフレ率は、+10%(中央値)、5 年後でも+5%(同)となっており1、消費者物価指数(CPI)の前年比(2024/7月)の+2.7%や、近年の同指数の最高値+4.1%(2022/12 月)よりも高くなっている。こ1日本銀行調査の「生活意識調査」、2024年6月調査。 このことは、家計の期待インフレは、経済学が想定するような完全合理的ではないことを示唆している。 更に、家計が完全合理的であれば、期待インフレ率はばらつくことなく、同一の水準に落ち着くはずであるが、実際の調査では、0%から+10%以上まで大きなばらつきが生じている。このように、家計の期待インフレ形成が完全合理的とは言えない背景としては、以下のような要因が指摘されている。 第一に、多くの家計で期待インフレ率の形成に必要な知識が不足している。例えば、日本銀行が物価安定の目標を CPI 前年比+2%に定めていることを「知っている」と回答した先は 26%に過ぎない。同様に、日本銀行の活動に「関心がある」との回答は32%と低水準に留まっている。第二に、家計は、期待インフレ形成の基礎となる実際の物価動向を正確に把握していない。家計のインフレ実感は、食料品やガソリンなど日常的に頻繁に購入する品目の価格に強く影響されることが判明している。物価動向の把握の歪みは、期待インフレ形成にも大きな影響を及ぼす。 三に、期待インフレ率は、家計の社会経済的な属性(性別、所得、学歴、金融リテラシー等)によって回答傾向が異なる。家計が完全合理的であれば、期待インフレはこうした属性の違いの影響を受けない筋合いである。 上記要因に共通することは、多くの家計は、期待インフレの形成に十分な関心を払っておらず、完全合理的には行動していないことである。このため、経済学でも、完全合理性に代わる家計の期待形成理論として、合理的無関心仮説 (rational inattention hypothesis (RIH)) や粘着情報仮説 (sticky information)などが提唱されるようになった。RIH は、家計の情報処理能力に限界があることを認め、その能力を自分にとって価値が高く重要な情報の処理に割り当て、価値の低い情報は無視すると考える。すなわち、情報処理能力に限度がある場合には、自分にとって価値の低い情報に無関心であることが合理的な行動なのである。 より具体的にインフレ動向に即してみると、インフレ高進期に物価関連情報が不足すると、消費財やサービスの購入時期を誤ったり、金利動向を読み違えて不利な自動車や住宅ローンを契約してしまったりする。このため、家計は、インフレ動向に強い関心を持ち、期待インフレの予測にも注力するようになる。逆に、低インフレ期には、消費・投資行動に物価変動が及ぼす影響が相対的に小さくなるため、情報価値が低下し、家計は無関心となる。その分、限られた情報処理能力は、賃金動向や失業率など大きく変動し、生活への影響が大きい分野に割り当てられることになる。このように、インフレ水準によって、家計の物価動向への関心度合いが非連続的・非線形的に変化すると考えるのが、RIHである。

2.2. RIH は、定量的に検証できるのか
では、RIH は、どのように実証できるのであろうか。実のところ、RIHの実証研究例は少なく、特に定量的な分析は限られている。ただし、近年の物価動向は、RIH の分析に好都合な状態を提供している。すなわち、先進国では2008-09年の金融危機後、軒並み低インフレが続き、わが国をはじめとして物価下落に陥った先も見られた。こうした状況では、RIHでいう合理的無関心の状態に陥っていた可能性が高い。 その後、2021-02 年には、コロナ禍における需給タイト化、ロシアのウクライナ侵攻等による資源価格の上昇、そしてわが国では円安の進行などインフレ要因が重なり、世界的にインフレ率が高まった。このような物価動向を巡る急速な環境変化により、RIH が想定するような、合理的無関心から関心を高めるフェーズへの転換が期待できる。RIH を実証する際の問題点は、家計の物価に対する関心度をどのようにデータ化するか、である。この点、最近発表された海外の論文では、グーグルのトレンド・サーチを用いて、グーグルのおける“inflation”という単語の検索数を人々のインフレ関心度を表す代理変数とした上で分析している5。新聞やテレビを通じた受動的に受け取る情報とは異なり、インターネット検索は、能動的な情報取得行動であり、関心度との関連性が高い。なお、グーグル・トレンドは、物価動向以外にも、例えば、自動車販売、失業率、新型コロナやインフルエンザの感染状況等の把握にも広く用いられている。 わが国の場合の検索数を図表1に示した。なお、“inflation”の直訳は、「インフレ」ないし「インフレーション」であるが、後述する分析結果でもっともレスポンスの良い「物価」を採用した。グーグル・トレンドでは、期間中の最大値を 100 として、0 から 100 の間に検索結果数が収まるように指数化されている。同図は、2004 年 1 月-2024 年  図表2は、同様に、米国における“inflation”の検索結果である。低インフレ期の規則的な凹凸は、季節性の存在を窺わせるが、わが国以上に低インフレ期と今次インフレ期のコントラストが著しい。 月の期間を図示しているが、指数のピークは、2022年12月と、CPI前年比のピークと致している。 次に、グーグル検索数と CPI との関係を図表 3 で図示した。これは米国の例で、横軸にCPI 前年比、縦軸に検索指数をとり、2004 年以降月次のデータをプロットしたものである。米国でもCPI 前年比が 0?3%程度の安定期が長く続いたため、左下の領域にドットが集中しているが、今次インフレ期を中心に右上にかけてもドットが分布している。ちなみに指数関数を当てはめると、CPI前年比が上昇するほど、非線形的に検索指数家計のインフレ関心度合いが高まっていく様子が窺われる6。こうした動きは、インフレ率が高まると家計は合理的無関心の状態から脱していくと考える RIH と整合的である。

2.3. 閾値モデルによる分析
本節では、Korenok et al. (2022)(Korenok 論文)で示された手法に則ってRIHと閾値を検証していく。Korenok 論文では、閾値モデルを用いて、CPI 前年比の上昇に従って、インフレ関心度合い(検索数)が非連続的に変化することを検証している。具体的には、@低インフレ時には、合理的無関心 (rational inattention) な状態にあり、インフレ率が多少上昇しても検索数は余り高まらないこと、A一定のインフレ率(閾値)を超過すると、一転してインフレ率の上昇と共に関心も高まっていく関係に転ずること (highattention)と想定する。閾値モデルでは、こうした閾値の数値化が可能である。本稿では、以下のような閾値モデル(threshold model) を用いる。 yt=α+β1xt (xt<γ)+β2xt (xt>γ)+et ここで、ytは、t期における検索数(0-100に指数化)、xtは、t期におけるCPI前年比、(xt<γ)は、CPI 前年比が閾値 γ より小さい場合に1、その他の場合には0をとるダミー変数、(xt>γ)は、逆に CPI 前年比が閾値γより大きい場合に 0、小さい場合に 1 をとるダミー変数である。β1およびβ2はそれぞれの状態における係数である。
Korenok 論文では、@β1=0 という帰無仮説が棄却されないこと、A逆にβ2=0 という帰無仮説が棄却され、有意に0以外の正の数値をとることを求めている。 なお、γについては、回帰式の二乗平均平方根誤差(RMSE)が最小となる値を求めていくことになる。ここでは、RMSEの代わりにR2が最大になるγをCPIを0.5%ポイント刻みで代入して閾値を特定していく。 Korenok 論文に倣って、まず米国の場合の閾値を求めてみよう。使用する変数は、グーグル・トレンドの“inflation”(米国)と CPI コア前年比で、データ期間は2004年1 月-2024年6月である。なお、グーグル・トレンドのデータは検索する単語や国を問わず、2004年1月が始期となっている。 上記表から明らかな通り、米国の閾値はCPIコア前年比で+3.0%にある。なお、閾値が3.0%の場合の係数は、β1=5.952 (t値=28.104)、β2=0.454 (同1.385)となった。両変数の散布図に閾値モデルの計算結果を重ねると図表 5 のようになる。CPIコア前年比が+3.0%以下では傾向線がほぼフラット、+3.0%以上では明確な正の勾配線に変化している。つまり、閾値を境にlow-attention フェーズと high-attention フェーズに分かれる。 なお、Korenok 論文では、米国の閾値を+3.55%と算出している。本稿の計算よりも約0.5%ポイント高くなっているが、その要因としては、@Korenok論文では、ヘッドラインCPIを用いている一方、本稿ではコアCPIを用いたこと、A計算期間がKorenok論文では2022 年5月までとなっている一方、本稿では、2024年6月まで延長したこと、が考えられる。 次に、同様の手法で、わが国家計のデータを分析する。“inflation”の直訳は、「インフレ」ないし「インフレーション」なので、両単語について分析した(図表 6)。計測期間は米国同様、2004年1月?2024年6月、CPI前年比については、除く生鮮・消費税率引き上げ要因調整済みを用いた。「インフレ」については、閾値が+1.5%となった。「インフレーション」については、R2 の最大値は、+0.5%となったが、そのほかにも、局所的なピークが、+2.0%、+3.0%にもみられ、閾値を明確に特定することはできなかった。わが国では、「インフレーション」とよりも「インフレ」と略した言葉の方がよく使われることと関連している可能性がある。 次に、わが国は低インフレ期が長く続いたことを勘案し、”inflation”とは若干意味合いが違うが、よりニュートラルな単語である「物価」でも同様な作業を行なった。計測期間やCPIについては図表6と同様である(図表7)。計算の結果、「インフレ」同様、「物価」についても閾値が+1.5%となった。R2も「インフレ」よりも有意に高くなっている。こうした結果から、わが国のインフレへの関心の閾値は、+1.5%前後と見做して良いであろう。 日本銀行は、2%のインフレ目標を定めているが、過去に持続した低インフレ期影響もあり、閾値は政策目標値を下回っている。今後の物価情勢次第で閾値も動きうるが、少なくとも現状では、金融政策目標に届いていない。 図表8は、「物価」の計算結果に基づき、米国の図表 5 と同様に散布図及び傾向線を描いたものである。R2 が米国よりも劣っていることに表れているように、閾値+1.5%以下のlow-attention の領域でも散らばりがかなり大きく、傾向線もt値が低いながらも若干のマイナスの値をとるなど米国ほど教科書的ではない。なお、同図に示した閾値モデルのパラメーターは以下の通りである。
yt=33.01-1.81xt (xt<1.5)+10.79xt (xt>1.5)+et
Korenok 論文では、先進国、新興国合わせて 37 か国について上記手法を適用している。全37 か国の閾値の平均は、+2.09 となっており、米国の+3.55 よりはかなり低くなっている。また、同論文では、37 か国の分析結果に基づきサンプルを、@米国と同様パターン」、A「中間パターン」、B「米国とは非整合的なパターン」の 3 種類に分類している。計測期間が2022年5月までという点に留意する必要があるが、わが国は3分類のうち、B「米国とは非整合的なパターン」に分類され、計算された閾値も 0.27 と非常に低い。同じく低インフレ国であるスイスも閾値が 0.36 と非常に低く、両国共にインフレ関心度合いの非連続性が明確には検出できていない。こうした結果につき同論文では、最高インフレ率が他国に比べ低いため、計測期間中、high-attention領域に一度も入っていないためではないかと推測している。 Knorenok 論文に合わせ、計測期間を2004年1月?2021年12月に短縮して閾値を再計算した(図表 9)。一見してわかるように、R2 が極めて低く、一応ピークは、+1.5%となっているが、信頼性は疑わしい結果となった。

3.閾値と平均インフレ率との関係
前章でみたように、閾値は米国で+3.5%、わが国で+1.5%と国によって異なっている。そこで本章では、わが国を含め 21 か国で閾値を推計した(図表 10)。なお、閾値が不明確で特定に至らなかった国については省略した。計測期間は、2004年1月から各国の CPI 直近発表月までである。なお、検索した単語は、英語の“inflation”を各国の公用語に翻訳した単語を用いたが、一部の国では検索結果が不自然な動きがみられ、こうした国々では、英語の“inflation”で代替した。 閾値の結果を見ると、最も低いのがスイスの+1.0%、ついでわが国の+1.5%となった。多くの国では、閾値は+2.5%から+3.5%のレンジに入っており、中央銀行のインフレ目標である2%や1-3%を少し超過したところに閾値が並んだ。ただし、ウルグアイ、アルゼンチン、トルコなどは5%以上であり、特に後2か国では、2桁となっている。こうした国々では高いインフレ率の影響を受けているものと考えられる。 Korenok 論文では、わが国はスイスともに閾値モデルで不安定と判定されたが、2024 年 6 月までデータを延長したところ、安定的に閾値が算出されるようになった。このように、閾値の推計には、low attention とhigh attention の双方の状態を含んでいることが必須となる。 図表 10 の並び具合と各国のインフレ状況からもわかるように、計測期間中の平均的なインフレ率と閾値には相関関係があるように窺われる。Korenok論文でも閾値と平均インフレ率の関係をプロットした散布図が示されている。図表 10 のうち、先進国をプロットしたものが、図表11である。 両者の間にはR2=0.79 程度のかなり安定した相関関係が見られる。わが国は傾向線の左端に位置するが、傾向線との乖離は比較的少ない。スイスは、閾値が 1%とわが国より低いもが、中央銀行のインフレ目標は、「2%未満」であり、わが国同様、目標値を下回っている。 なお、わが国で2004年以降の計測期間でCPI前年比が閾値を超えたのは、金融危機直前と今次インフレの 2 回のみ(消費税率調整は、除いてある)であり、割合にして12.5%に過ぎない(図表12)。 次に、高インフレ国を含む21か国全体をプロットしたのが、図表13である。高インフレ国を含めても閾値と平均インフレ率の間には安定的な相関関係が認められ、人々が high attention に移行する閾値は、インフレ実績に大きく影響されることがわかる。

4. 頑健性の検証
4.1. DK 回答による閾値推計
前節では、家計のインフレ動向への関心度合いをグーグル・トレンドの指数で推計した。本節では、他のインフレ関心度合いを表す変数を用いて閾値モデルを推計し、推計の頑健性を確認する。 Korenok 論文では、頑健性チエックを X(旧ツイッター)における“inflation”の使用回数で実施しており、グーグル・トレンドの推計と同様の推計結果を得たとしている。本稿では、これとは別に、Bracha and Tang (2022) (BT論文)で示された推計方法を用いる。すなわち、同論文では家計の期待インフレ調査から得られた回答のうち、「わからない」(Don’t know)を選択した回答者の比率(DK 比率)をインフレ関心度合いを示す代替変数として利用している。すなわち、閾値以下の無関心状態では、DK 比率が高く、逆に、インフレ率が閾値以上に上昇し、high attentionのモードに入るとDK比率が低下する、と考える。本稿でもデータはBT論文同様、米国の期待インフレに関する代表的な調査である、ミシガン大学の“Survey of Consumers”を利用した。計測期間はグーグル・トレンドの分析に合わせて、2004 年 1 月?2024 年 6 月とし、CPI コア前年比を用いて計測した(図表14)。 全般的に R2が低いことは問題だが、DK 比率ベースでも、インフレへの関心度の閾値は+3.0%と、グーグル・トレンドから算出した値と同値になった。このため、米国の場合の閾値は+3.0%前後にあるとみて良いであろう。 次に、同様の推計手法をわが国に当てはめてみる。日本銀行が調査している「生活意識調査」では、選択肢に「わからない」が入っていないが、内閣府が調査している「消費動向調査」では、「わからない」の選択肢が含まれている。データ期間は、消費動向調査のデータ制約から2004年4月-2024年6月、CPIは、消費税調整済みの前年比を利用した。推計結果は下記の通りである(図表15)。 計算された閾値は、+1.5%となり、図表 7 で示したグーグル・トレンドから求めた。閾値+1.5%と一致した。このことから、わが国では閾値は+1.5%程度にあり、米国に比べ低インフレ期が持続したため、閾値が有意に低い水準にあることが確認された。 両国ともに、中央銀行のインフレ目標は、2%に設定されているが、低インフレ期間が長かったわが国では、目標値に届く前に閾値を超えてしまう一方、米国では目標値を 1%超えたところで閾値に届くところが興味深い。人々がインフレ目標を信用しているのであれば、目標を超えたところに閾値がくる米国型の方が自然な関係と考えられる。

4.2.  家計の属性別・閾値
消費動向調査では、属性別の回答内容が公表されており、それぞれにDK比率が算出可能である。そこで、参考までに属性別の閾値を算出した(図表16)。 性別、所得階層別では、属性ごとの相違はみられず、+1.5%と全体の閾値と同一であった。一方、就業形態別では、無業者のみ 0.5%ポイント高い+2.0%となった。逆に世帯分類別では、単身世帯が平均より 0.5%低い+1.0%となった。また、世帯主年齢階層別では、20 代では、サンプル数が少なく安定した閾値が計算できなかったほか、40 代が+0.5%とかなり低い閾値となるなど全体的に不安定であった。また、60代、70 代以上の高齢者層では、閾値が+2.5%と他世代よりも高くなった。これはいわゆるコーホート効果で 1970 年代の高インフレ期の記憶が残っている影響とも考えられる。全体としてみると、閾値が+1.5%となる分類が過半を占めており、図表 15 で示したサンプル全体の推計と概ね整合的な結果となっている。

5. 金融政策への含意
インフレ関心度に閾値があり、インフレ率と非線形的な関係にあることは、金融政策運営にも以下のようなインプリケーションを与える。第一に、インフレ率が低く、家計が low attention の状態にある場合、インフレ率の変化に対して家計の反応は鈍くなる。これは、経済学のフィリップス曲線でいえば曲線の傾きが緩やかになることと等しい。実際、金融危機後に先進諸国が経験した持続的な低インフレ期には、フィリップス曲線のフラット化が問題となっている。  逆に閾値を超えるインフレが続く場合、高止まりしがちな期待インフレ率を円滑に引下げるためには、利上げ政策に加えて、人々の期待に働きかけるような中央銀行コミュニケーションが求められる。その際には、経済主体が high-attention の状態になっていることに留意した発信情報の選択や工夫が求められる。 第三に、中央銀行が一般向けコミュニケーションを実施する際にも閾値の存在が問題となる。閾値以下の低インフレ時には、金融政策上、期待に働きかける非伝統的政策を採るケースが多い一方、家計や企業の反応は鈍くなってしまうという政策上のジレンマが生じてしまう。ここでいう期待に働きかける政策とは、フォーワード・ガイダンスや量的緩和政策などである。 第二に、今次インフレ期のように、家計がhigh attention の状態に入ると、家計はインフレ率の動向に敏感になり、実際のインフレ指標が下落に転じても、期待インフレは高止まり傾向を示したり、下降に要する時間が長くなったりする傾向が現れやすい。事実、わが国家計の期待インフレ率をみると、CPIが2022年第4四半期をピークに前年比が低下に転じたのに対し、5年後期待インフレは、2022年第2四半期以降、2年間も横這いを辿っており、下降に転ずる気配が伺えない(図表 17)。また、high attention 期には、インフレ・ショックの賃金や価格設定などへのパス・スルーが高まることにも留意が必要である。

6. おわりに
本稿では、物価上昇率が閾値を超えると、インフレ関心度合いが非連続的に高まるというRIHを閾値モデルによって検証した。 近年の物価動向は、RIH の検証に好都合な状態を提供している。第一に、金融危機後の低インフレ期が続いた後、コロナ禍期にインフレ率が急激に高まった。第二に、インフレへの関心度合いを示す指標としてグーグル・トレンドから得られる検索数を用いる研究が開発された。本稿においても RIH を閾値モデルで検証した結果、以下が判明した。 第一に、グーグル・トレンドの“inflation”の検索指数は、家計のインフレ関心度合いを表す代替変数として有効である。閾値モデルにより、インフレ関心度合いが高まり始める閾値は、米国で+3.0%、わが国で+1.5%と推計された。わが国では長らく低インフレが続いたため、今次インフレ期のデータを含めないと安定した閾値は算出できなかった。また、検索用語は、「インフレ」、「インフレーション」よりも「物価」の方が安定的な推計結果が得られた。 第二に、同様の推計手法を用いて、21 か国の閾値を推計した。閾値が低い国は、スイス(+1.0%)、日本(+1.5%)であった。その他多くの国は、+2.5%から+3.5%のレンジに入っており、中央銀行のインフレ目標である2%や1?3%を少し超過したところに閾値が並んだ。また、計測期間の平均インフレ率と閾値の水準には低インフレ国が多い先進諸国のみならず、ウルグアイ、トルコ等高インフレ国を含めた場合でも安定した相関関係が観察された。 第三に、上記推計の頑健性を確認するため、家計の期待インフレに関するアンケート調査から「わからない」の回答比率を用いて別途閾値を計算した。その結果、日米ともに、グーグル・トレンドから求められた閾値と一致し、頑健性が確認された このほか、閾値存在は、中央銀行の金融政策にも、@低インフレ時のフィリップス曲線のフラット化、A高インフレ時の期待インフレの高止まり現象、B中央銀行コミュニケーションの重要性、などのインプリケーションを有する点にも留意が必要である。
 
以 上

(参考文献)

北村富行・田中雅樹 (2019)「合理的無関心や粘着情報の企業の予想インフレに対する含意」日本銀行ワーキング・ペーパー・シリーズ、No.19-J-10、2019年10 月
福原敏恭 (2024)「わが国家計のインフレ実感:形成過程と期待インフレ率との関係」、 インフォテイメント研究所、2024 年 2 月  
Bracha and Tang (2022) “Inflation levels and (in)attention,” Anat Bracha and Jenny Tang, Federal Reserve Bank of Boston Working Paper No,22-4, January 2022
Buelens (2023) “ Googling “inflation”: What does internet search behavior revel about household (in) attention to inflation & monetary policy,” European Commission Discussion Paper 183, March 2023
Korenok et al. (2022) “ Inflation and attention thresholds,” O. Krenok, D. Munro and J. Chen, GLO Discussion Paper No. 1175, Global Labor Organization, Essen
Sims (2003) “Implication of rational inattention,” Journal of Monetary Economics, Christopher A. Sims, Vol.3, Issue 50, April 2003