家計の期待インフレ率の異質性
本稿では、家計の期待インフレ率の異質性を検証し、期待インフレ率に関しては、完全合理性が成り立っていないことを明らかにする。完全合理性の下では、期待インフレは利用可能な全情報を用いて形成されるため、家計の各種属性に関わらず同一数値に収斂する。しかし、実際のサーベイ調査をみると、属性により期待インフレ率はかなり異なっており、完全合理性を満たしていない。属性別にみた期待インフレの特徴は以下のとおりである。@性別に見ると、男性の期待インフレ率の方が低い、A収入区分別に見ると、収入が高くなるにつれ期待インフレ率は低下、B学歴別に見ると、高学歴になる程、期待インフレ率は低い、C就業形態別に見ると、年金所得者や無職者の期待インフレが高い、D年齢別に見ると、わが国では年齢区分が上がるほど期待インフレ率も上昇する傾向がみられた反面、他の先進国を含めると共通した傾向は見られなかった。このような期待インフレ率の異質性は、中央銀行の対外発信活動においても留意を要する。すなわち、対外コミュニケーションを効果的に推進するためには、期待インフレ率の上方バイアスが大きな属性、すなわち、女性、低収入層、低学歴層、高齢層(わが国の場合)などにターゲットを絞る必要がある。
家計の非連続的なインフレ関心度合い:閾値モデルによる実証
本稿では、物価上昇率が閾値を超えると、家計のインフレ関心度合いが高まっていくという合理的無関心仮説(RIH)を閾値モデルによって検証した。その結果、第一に、家計のインフレ関心度合いを表す代替変数として、グーグル・トレンドの“inflation”の検索指数が有効であった。閾値モデルにより、インフレ関心度合いが高まり始める閾値は、米国で+3.0%、わが国で+1.5%と推計された。わが国では長らく低インフレが続いたため、今次インフレ期のデータを含めないと安定した閾値は算出できなかった。また、検索用語は、「インフレ」、「インフレーション」よりも「物価」の方が安定的な推計結果が得られた。第二に、同様の推計手法を用いて、21か国の閾値を推計した。閾値が低い国は、スイス(+1.0%)、日本(+1.5%)であった。その他多くの国は、+2.5%から+3.5%のレンジに入っており、中央銀行のインフレ目標である2%や1?3%を少し超過し
たところに閾値が並んだ。また、計測期間の平均インフレ率と閾値の水準には低インフレ国が多い先進諸国のみならず、新興国の高インフレ国を含めた場合でも安定した相関関係が観察された。第三に、上記推計の頑健性を確認するため、家計の期待インフレに関するアンケート調査から「わからない」の回答比率を用いて別途閾値を計算した。その結果、日米ともに、グーグル・トレンドから求められた閾値と一致した。なお、閾値の存在は、低インフレ時のフィリップス曲線のフラット化など金融政策上のインプリケーションを有する点にも留意が必要である。
今次インフレ期における企業の期待インフレ率
本稿では、今次インフレ期における企業の期待インフレの特徴や期待形成について考察する。第一に、わが国企業の期待インフレの動向を短観調査でみると、プレ・パンデミック期には、各年限とも 1%前後で推移した後、今次インフレ期のピーク時には 1 年先で3%、5 年先でも 2%強に達した。また、企業規模別では、大規模企業ほど低くなっている。また、他の経済主体の期待インフレ率と比べると、「エコノミスト<企業<家計」の順となった。なお、パンデミック期入り後、企業は不確実性の増大を理由に回答を留保する割合が、5-10%ポイント程度上昇している。第二に、企業の期待形成は、完全合理性的でも適合的期待でもない。これは、@企業規模などによるインフレ率のバラツキ、ACPI に対する上方バイアスの存在、など合理的でない行動が見られる反面、Bインフレ高進期に期待インフレ率を重視するスタンスに転換するなど合理的な面もみられるからである。両者を整合的に説明する理論として、“rational inattention” (RI)が注目されている。RI では、企業は、「合理的に(価値の少ない情報を)無視する」と考え、期待インフレの優先度は、インフレ率や投入コストなどにより変動する。第三に、期待インフレがアンカーされているか(金融政策のインフレ目標付近で安定的に推移している状態)どうかを検証すると、今次インフレ期入り後、長期の期待インフレが明確な上昇傾向を示しており、アンカーされているとはいえない。これはわが国のみならず英国、イタリア等他の主要先進国についても同様である。企業の期待インフレに関するデータや研究は数が少なく、今後ともデータの充実、期待インフレ形成過程に関する研究などの進展が望まれるところである
わが国家計のインフレ実感:形成過程と期待インフレ率との関係
本稿では、家計のインフレ実感の形成メカニズムを検証した後、インフレ実感と期待インフレの関係や金融政策へのインプリケーションを検討する。家計のインフレ実感は、CPIを大きく上回って推移しているため、軽視される傾向にあった。しかし、インフレ実感は、期待インフレの形成の基礎となっていることが判明したため、その情報価値が見直されつつあり、CPI からの上方乖離にも次のような説明がされるようになった。第一は、家計の物価統計に関する知識不足である。インフレ実感の根拠として家計の最多回答は、頻繁に購入する品目の価格動向であった。実際、頻繁に購入される食料品・ガソリンの合成価格指数は、CPI 全体に比べインフレ実感とのフィットが大きく改善した。第二に、人々の損失回避傾向である。値上げは消費者に大きな損失感をもたらするため、インフレ実感を押し上げる。第三に、家計は、CPI の品質調整を認識できない。次に、インフレ実感が期待インフレ形成の基礎となっている証左としては、@期待インフレ率とインフレ実感ともに、性別・収入・学歴など社会属性の違いの影響を同様に受けること、A家計は、期待インフレを回答する際に、インフレ実感に大きく依存していること、B個票データを用いたクロスセクション分析で期待インフレとインフレ実感の間に強い相関関係があること、が挙げられる。最後に、インフレ実感が期待インフレ形成の基礎となっていることは、金融政策面に次のようなインプリケーションをもたらす。@食料品・ガソリンは、コア・コアCPI から控除されているが、家計のインフレ実感を見る上では重要なコンポーネントであること、A社会属性の違いによって期待インフレが異なることは、実質金利や資源の効率的配分にも影響すること、B経済情勢に即したインフレ実感の形成のためには、金融教育による金融リテラシー向上が望まれること、などである。インフレ実感に関する研究は従来手薄であっただけに、今後のデータ充実化、インフレ実感の形成要因や期待インフレ率との関係の分析などの進展が望まれる。
今次インフレ期における期待インフレの不安定性
今次インフレは、経済的には家計の実質所得圧迫、賃上げ問題、財政金融政策への影響など様々な問題を提起した。その一方で、家計の物価感を検証する立場からは、これまでの物価低位安定期にはない貴重な機会を提供している。家計部門の物価感を日銀のアンケート調査でみると、インフレ実感、期待インフレ率ともほぼ一貫して CPI 上昇率を上回っているが、その動きは CPI を良く追っている。また、今次インフレ期の特徴として、インフレ実感、期待インフレ率ともに CPI 上昇率を大幅に上回ったことが挙げられる。特に期待インフレは、1年先のみならず、5 年先予想についても過去のトレンドや CPI 上昇率を大幅に超えるまで上昇しており、期待インフレが安定しているとは言い難い。これは、欧米諸国の家計調査との比較からも裏付けられており、欧米では、CPI 上昇率のピークがわが国より格段に高かった反面、期待インフレ率は逆に落ち着いていた。特に 5 年先予想は、わが国家計とは違い、CPI 上昇率の影響を殆ど受けていない場合が多い。こうした現象について今後、期待インフレの安定性や欧米との違いなどを中心に更なる分析が必要となろう。その際ヒントになるのは、期待インフレと密接に関連しているインフレ実感の分析である。この点については、別途検討の予定である。
家計のリスク資産形成策を批判的に検証する
本稿では、家計の金融資産形成の問題、特に、「貯蓄から投資へ」というリスク資産形成策をデータに基づき批判的に検証する。論点は 3 点あり、第一が、米国家計の資産配分をベンチマークとすることの是非、第二が、わが国経済の長期低迷がもたらした影響、第三に、IS バランス上の問題である。第一の点については、米国家計部門の金融資産配分は、極端にリスク資産比率の高い富裕層に大きく影響されている。また、欧州各国も米国ほどリスク資産志向ではない。このため、米国家計をベンチマークにしてわが国の方向性を示すことには、慎重であるべきことを指摘する。第二の点については、日米欧家計の金融資産を比較すると、日本の伸びが低い。これにはわが国の長期に亘る所得低迷・株価低迷が大きく影響している。また、若年層のリスク資産比率が低いことについても、リスクテイクに消極的というよりも、住宅など他の形態のリスク資産を多額保有していることから生ずる流動性制約の影響が大きい。第三の点については、わが国企業は、長期に亘って資金余剰主体となっている。このため、資金制約によって成長が阻害されている訳ではないこと、また、家計の現預金をリスク資産にシフトさせることができたとしても、経済成長を直接加速させる効果は期待薄であることを示す。むしろ経済成長が加速すれば、家計の可処分所得も伸び、流動性制約も緩和されることから、自ずとリスク資産に資金が向かうはずである。
本稿では、ファイナンシャル・ウェルビーイング(FW)の概念の紹介および欧米で活発化している企業主体による従業員の FW 改善策(ファイナンシャル・ウェルビーイング・プログラム<FWP>)について説明する。わが国でも、「ウェルビーイング」(幸福度・満足度)という言葉が聞かれるようになって久しい。FW は、その4つの構成要素のうちの一つであるが、身体的健康やメンタル面など他のウェルビーイングに比べると、認知度が低く、研究・調査や改善策も遅れている。しかし、本稿が示す通り、欧米では官民双方が FW の調査・研究を行い、国家戦略にも組み込んでいる国がある。また、従業員の FW の悪化が、企業にも生産性悪化や欠勤増などのコストをもたらしていることが明らかになると、企業が主体となって従業員の FW 改善を働きかける FWP が実践されるようになってきた。そこで本稿では、第 2 章で先進国における FW の位置付けや現状を概観する。続く第 3 章では、欧米企業の従業員が抱える経済問題のストレスや FW の状態、また、これに対する企業側の態度など、職場における問題を紹介する。さらに第 4 章では、企業における FWP の具体的な実施手順である、FW の定義化や測定、FWP の制度設計、業務への組み込みと課題克服、効果測定などをみていく。続く第 5 章では、こうした欧米の先行例に基づき、わが国へのインプリケーションを整理する。
本稿では、応用範囲の広い行動経済学の知見を、中央銀行の金融政策に活用する方法を検討する。行動経済学の金融政策への応用は、未だ確立した方法はなく、試行錯誤が続いている。そこで前半では、これまでの経緯を概観すべく、@行動経済学によって、フィリップス曲線の形状をより現実に近い形で解釈できること、A中央銀行の政策意思決定者には、利用可能性バイアスなどの行動バイアスが働く可能性があること、を述べる。そして本稿後半では、B中央銀行による市民との政策コミュニケーションに行動経済学を応用する方法を論ずる。政策コミュニケーションについては、現状分析のみならず、行動経済学の具体的な応用方法を提案する。これは、@市民を対象としたコミュニケーションは、依然初期段階にあること、A欧米を中心に学術研究面でも関心が高りつつあること、B金融教育分野で蓄積された行動経済学のノウハウが応用可能であること、といった近年の動きを勘案したためである。具体的には、まず政策コミュニケーションの受け手である市民に生ずる可能性のある行動バイアスとして、@情報過多、A近視眼的行動、B自信過剰を挙げる。次に、こうした行動バイアスへの対処法として、@情報過多対策として、情報量の削減、難易度調整、情報媒体の適切な選択、A先送り対策として、インセンティブ付与、“teachable moment”の活用、自己関連性やフレーミング効果の利用など、B自信過剰対策として、ミニテストの実施を提案する。中央銀行による市民との政策コミュニケーションは、従来の金融市場関係者など専門家を対象とする場合とは全く違ったアプローチが必要とされる。特に、@無関心層に如何に関心を持ってもらうか、A情報を伝えるだけでなく、理解してもらうためには何が必要か、という点は、大変難しい課題であり、息の長い取り組みが求められよう。
女性の金融リテラシーは、男性よりも低い。これは、わが国を始め世界的な傾向である。なお、金融リテラシーとは、適切な金融取引を行うために必要な知識や判断力のことである。金融リテラシーに男女差が発生する原因については、関係者の間でコンセンサスは得られておらず、「唯一の原因は存在せず、複数の要因が複雑に絡み合っている」と考えられている。これは、@個人的要因(年齢、所得、金融資産保有額、学歴等)の統計的な説明力が弱いこと、A家事分担説(家庭内で主に男性が金融取引を行う影響)に対して、数多くの反証が示されたこと、による。その後、大学生や社会的に特徴のある国を対象とした研究により、統計処理に馴染みにくい社会慣行の影響が指摘されている。女性にとって、金融リテラシーは、男性よりも必要性が高い。これは、女性が男性よりも長寿命で必要な老後資金も多くなる反面、所得・年金面で男性よりも不利な状態にあるため、資産運用に頼らざるを得ないためである。このほか、女性の金融リテラシーに関する特徴として、@金融リテラシーの自己評価が低く、金融取引に自信がないこと、A金融知識面では男性に劣る反面、家計管理や情報収集など行動面では劣ってはいないこと、などが指摘されている。金融リテラシーの男女差を解消していくためには、女性向けの金融教育の普及のカギとなる。その際には、@男女差の存在の周知徹底と原因解明に向けた更なる調査研究、A金融教育を女性の経済進出促進策の一環として位置付けていくこと、などが課題として挙げられる
わが国同様、米国でも消費者をターゲットとした詐欺被害が急増している。詐欺の種類も、還付金詐欺(納税詐欺)やオレオレ詐欺、サポート詐欺などが横行しており、最近のコロナ禍では、ロマンス詐欺など新手の詐欺も増えている。年間の被害金額規模は、わが国の10 倍以上に達しており、米国連邦議会上院も相談窓口を設けるなど、各種対策が講じられている。詐欺被害者の調査や学術研究の面でも米国は、わが国に比べ進んでいる。例えば、金融業規制機構(FINRA)は、詐欺犯に接した 1,408 名を調査し、被害者の特徴として以下の諸点を見出した。すなわち、@電話に比べ、ウェブサイトやソーシャルメディアでは、犯人に誘導されやすいこと、A犯人が政府機関や銀行等の職員になりすましたり、犯人からの申し出を判断する際に時間的余裕が与えられなかったりするなど、いわゆる説得的話法が用いられると騙されやすいこと、B孤独感が強い人、金融リテラシーが低い人ほど騙されやすいこと、C金融機関の窓口やスーパーのレジ係など第三者の介入が有効であること、などである。広島大学が実施したわが国の被害者調査の結果と照合すると、日米で共通する詐欺被害者の特徴として、@金融リテラシーが高いほど詐欺被害に遭いにくいこと、A逆に、孤独感が強い人は被害に遭いやすいこと、の2点が判明した。金融リテラシーの向上を図るためには、金融教育が重要である。金融教育は、家計管理や資産運用の効率化などを目的として実施されているが、詐欺被害の抑制にも資することから、より幅広い層への強力な普及活動が望まれる。また、詐欺対策の広報面では、詐欺ストーリーの周知のみならず、説得的話法のテクニックなど詐欺被害に至る基本的なメカニズムについても消費者の理解を深めていくことも重要である